KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

川浦康至編『日記コミュニケーション』

日記コミュニケーション―自己を綴る、他者に語る (現代のエスプリ no. 391)

日記コミュニケーション―自己を綴る、他者に語る (現代のエスプリ no. 391)

 現代のエスプリNo.391「日記コミュニケーション」(至文堂、2000、1381円)が手に入ったので読む。全体をざっと見ると、この本が扱っているのは、Web日記のことだけではなく、むしろ古典的な日記を扱った記事の方が多い。ともかく、まずは冒頭の座談会を読む。

 座談会の四人のうち、川浦さんと三浦さんはWeb日記を書いていて(日記猿人には登録していない)、大野さんと相川さんは書いていない。にもかかわらず話題の中心はWeb日記であった。Web日記を書いていない人が、話に加わったということが、結果的に良かった。もしこれが四人ともWeb日記を書いている人だったら、何となくWeb日記を書いている心情が共有されてしまって話は発展しなかっただろう。Web日記を書いていない人が、書く心理を了解するのはけっこう大変だ(「書いてみりゃわかる」では学問にならないし/そう言いたいけど)。実際、三浦さんは自分がWeb日記を書き続けている理由を説明するのに苦労している様子が文面からうかがえる。

 で、この座談によって古典的な日記とWeb日記との違いがだんだん明らかになっていくのだが、それを一言で言えば、山下清美さんの記事のタイトルの通り「Web日記は、日記であって日記でない」ということになる(山下さんの論文はあとできちんと読みます)。座談の中にたとえばこんなくだりがある:

相川 大塚英子さんの日記では性的な交渉があったときには記号が書いてある。本当に自分だけの日記だったら、それでいいと思います。(……)ところがウェブ日記となると、どこかで誰かが必ず読みます。そうすると、本当に書きたいことは書けなくなってしまいます。本当に書きたかったことが日記にはなくて、誰に知ってもらっても「まあ、いいか」というところが書かれていることになります。

 「そうかなあ?」と思う。ここにこうして書いていることは「誰に知ってもらっても「まあ、いいか」というところ」なのかな、と。もちろんこうして公開しているからには、最低限の落ち度がないように表現として調整しているのは当然なんだけど、それは「本当に書きたかったことではない」とは言えない。現に、これを本当に書きたい(あるいはそう決心した)ので時間を割いて書いているわけで。さらにいえばWeb日記でも性的な交渉が書き手にとって書きたいことであれば、書いてある例は見つけることができる。「まあ、いいか」的なことがWeb日記に連ねてあるとしたら、ここまでたくさんの人が書くようにはならなかったのではないかな。

 自分が書きたいことを書くということと、それに読み手がついているということの間で書き手はネゴシエーションをしなくてはならない。その緊張感がWeb日記にはある。私は古典的な紙の日記を1978年から90年に渡って書いていた。それは今も厚いバインダーに閉じられて残っているのだが、読み返すことはほとんどない。読み返しても恥ずかしさだけがよみがえってくる。その恥ずかしさというのは、自分以外に誰も読むことのない世界で自分の書きたいことだけを一人の世界で書いていたという緊張感のなさによるものなのだろう。

 紙の日記に書いてあったことは、本当に私自身が書きたかったことなのだろうか。それは私だけが判断できることなのだが(だからすでに科学ではないのだが)、少なくとも現在の私が判断すれば、それは書きたかったことどころか、むしろ書きたくなかったことがほとんどなのである。