KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

文章の冗長さの意味

 私の2/8の日記で「いまどきのはは」の文章は冗長だ、と書いた。しかし、それは否定的な意味で言ったのではない。辞書を引けば「冗長」というのは「くだくだしく長いこと」と説明されているから、いい意味で使われることは少ないのだろうが、私はむしろ冗長さというのを好意的に使った。文章の冗長さには意味がある、と。

 もちろん文章は簡潔な方がいいと言われている。いったん分量にこだわらずに書いて、そのあと慎重に削っていく、という文章作法を提言する人もいる。科学の世界でも、「より少ない原理(仮定)で説明した方がいい説明(理論)だ(オッカムの剃刀)」といわれるし、「より少ないパラメータで予測できるモデル式の方がいい(赤池情報量基準)」ということもあるし、「正しく動くならばより簡潔な(短い)プログラムの方がいい」というのも一般的に認められているだろう。こうしたことにしたがえば、同じことが伝えられるのであれば、簡潔な文章の方がいいということが言えそうだ。

 簡潔な一言で伝えられれば一番いい。たとえば「危ない!」とか「好きだ!」など。しかし、世の中はこういう明白な状況ばかりではないから、私たちは文を書く。さらにひとつの文だけでは不十分なので、文を連ねて段落を書く。ひとつの段落ではまだ不十分だと思えば二つ以上の段落を連ねて文章を構成する。一体どこまで書いたら十分だと言えるのだろうか。それは伝えたい相手に伝わったと確認できればその時点で十分な量だということになる。つまりは、特定の文章は読み手によって十分だったり不十分だったりする。だから文章を書くにはまず読み手の分析をしなさい、と言われる。実はそれが一番難しい。

 事実を伝えるのは最も少ない文章量でできる。意見を伝えるにはそれよりも長い文章が必要だ。状況の説明や前提条件、論理の展開が必要だからだ。そして、気持ちを伝えるのには最も長い文章が必要になるだろう。おそらく自分の逡巡や迷い、両面感情に正直になればなるほど長い文章になるのではないか。もちろんそうしたこまごまとした心の動きを忠実にコトバにしようと決心した場合に限られるけれども。

 認知心理学の研究法のひとつに「発話プロトコル」を取るというものがある。それは、何か課題をやらせながら頭に思い浮かんだものを(無理矢理)全部コトバにして出してください、というものだ。それはたとえて言えば、プログラムのデバッグをするときにトレースをかけて、どんなプロセスをしたのかを逐一追跡するようなものだ。もちろん発話プロトコルはトレース結果ほど正確ではないが、ある程度のことはわかる。少なくともヒントにはなる。発話プロトコルを分析すれば、人が問題解決をするときのさまざまな試行錯誤の様子がわかる。気持ちという形のないものにコトバの形を与えるのは、発話プロトコルを取るようなものかもしれない。そうした途中のプロセスを見せる人と見せない人がいる。

 デッサンをするときは、鉛筆で何度も薄い線を引く。そうした上でやっと一本の線が決まっていく。その薄い線をすべてコトバにしようとする人がいる。また、最終的な一本の線だけをコトバにする人もいる。