KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

実験計画法に代わる研究方法

長岡〜新潟にて、科研の打ち合わせと中間発表会。

長岡技科大の植野さんのところで、松居さんとともに3人で議論をする。松居さんの教育工学研究に対する考え方が自分と近いところにあることを確認し、驚く。サイエンティストのスタンスと言えるか。

前日夜から考えたことや話したことは次のようなこと。

実験計画法は、教育研究現場で使えないか、不十分にしか実現できない。統制群は倫理的な理由から設けることが難しい。また、要因配置をしたとしても、要因が多すぎて、すべての場合を尽くすことはできない。できるとすれば、100箇所くらいのサイトで要因を少しずつ変えていくというスタイルの大規模プロジェクトのみ(佐藤達哉さんが提唱しているような、「卒論で追試をやろう」も)。しかし、それがペイするかどうかは賭だ。

また、ひとつの要因を独立して操作することは実態に合わない。たとえばコンピュータの導入によって、クラス全体が変わる。学習者の態度、教材提供の変化、先生の介入の仕方、などすべてに影響する。たとえば、授業用の掲示板をインターネット上に開くことは、「私は学生の声を聞こうとしている」という姿勢を示している。これは、教員が(ことばだけで)「私はいつでも皆さんの意見を聞きます」というのとは明らかに違う効果をもたらす。

また、実験計画法では、それでわかることしかわからない。つまり、要因として漏れたものについては何も語ることができない(当たり前)。言い換えれば、新しい発見は常に不確定な計画法からの副産物として見いだされる。

したがって実験計画法に代わる方法論が求められている。

ひとつは授業のシステム的な見方。つまり、授業を(単純には)学生/教員/人工物(学習環境)という互いに緊密に依存しあっているシステムであるとみなす。これは実験計画法での要因が分離不可能であるということに対応する。このシステムそのものを記述することによって、それ自身を明らかにしていく。企業風土研究に似たような手法だ。最終成果はドキュメンタリーか?(そこが私には不満なのだが)

もう少し計画的にするならば、プレ・ポストパラダイムで、そのシステムが全体としてどう変わったかを記述する。あるいは別のグループと対比する。

構造方程式モデルは、その概念要素が抽象的すぎるという意味で使いにくい。つまり、モデルが妥当だということがわかったとして、「じゃあどうするのか」というステップがもどかしい。また、モデルや解釈が一意に決まらないこともある。