KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

喜多村和之『大学は生まれ変われるか---国際化する大学評価のなかで』

大学は生まれ変われるか―国際化する大学評価のなかで (中公新書)

大学は生まれ変われるか―国際化する大学評価のなかで (中公新書)

喜多村和之『大学は生まれ変われるか---国際化する大学評価のなかで』(中公新書, 2002)より。

ランキング対策にはどうしたらよいか。博士はいった。

ランキングを避けることはできない。つねにそれをもとめる人がいるからだ。それなら結構だ。ランキングはさせるにまかせよう。その代わりわれわれ大学は、自分たちの評価報告書にもとづいて、ランキングに負けない評価情報を提供することができればよいのだ。そのことこそがランキングを無用にするだろう。

それでは「質」とは何か? これまた限りない議論となる厄介な対象である。前出のオランダの大学評価の専門家は、質とは何かについてのおびただしい議論や論争を整理したうえで、結局質の定義をもとめるのは時間の無駄だという結論に達した。彼によれば、qualityとはloveのようなもので、誰もがそれについて語り、その存在を感じたり認識したりすることはできるが、いざそれを定義しようとするとむなしく立ち往生するしかない代物だという。

この「質」の概念は、ヨーロッパでは従来「卓越性」(excellence)や「飛びぬけた実績」(outstanding performance)を意味したが、今日では「目的への適合性」(fitness for purpose)ととらえられるようになっている(Woodhouse, 1999)。つまり「質」はそれ自体の絶対的な価値基準で示せるものではなく、大学の学部・学科の教育目的ないし研究目的にいかに合致するように達成しているかを証明したものが「質」というわけだ(OECD, 1999)。

なるほど、そうすると「質」とは「軸」の方向であり、その決定である。軸が決まったあと、それを量的に測ったり、カウントすることができる。軸と軸との直接の比較はできない。どちらの軸が偉いとか重要だというためには、何らかの価値観を決める必要がある。逆に言えば、価値観とは「この軸とあの軸が重要なのだ」ということの表明である。

因子分析とのアナロジーで言えば、軸と他の軸との関係を制約することができる(たとえば直交するべし、とか)。因子分析では軸の重みを比較することができるが、その軸そのものはどのような変数(項目)を採用するかによって決まってくる。つまり、全体の文脈によって軸が決まってくる。そしてそのもとで軸の重みが決まってくる。したがって、全体を決めなければ軸は決まらない。しかし、全体を決めるということは「本当の全体(宇宙?)」の中から注目すべき範囲を決めるということに他ならない。つまり、注目すべき範囲を決めるということそのものが質的な行為なのだろう。

「目的への適合性」が「質」だというのはよくわかる。この場合「適合性」が重要なのではなくて、「目的の立て方」が重要だ。目的が立てられたあとは、適合性は大きな困難なしに計算できるからだ。つまり数ある可能な目的の中から、特定の目的を採用するという行為自体が質的行為である。それをいかにするか。直観的にか、それともある適切な手続きを踏んでか。おそらく、特定の目的を採用するための手続きはあまり議論されていない。教育工学ではニーズ分析というものが確立されているが、それはあまり重視されてこなかった。心理学の研究でも、何が重要な変数になっているかということは「前書き」の中で軽く振れられる程度であって、論文の中心は変数を決めたあとのデータを処理したものである。実は、変数を見つけること自体が研究の肝といってもいいくらいなのに。

質的研究とはおそらく変数や軸や目的を決めるまでの、悪戦苦闘である。決まったらそれはもう質的研究ではない。したがって質的研究には(論理的に)検証はない。決めるまでのプロセスの妥当性について議論することはできるけれども、その正しさを検証するプロセスを含んでいないからだ。質的研究が論文にならない、なりにくい理由はここにある。論文には、変数を決めるまでのものと、それを検証するものとの2種類あることを明示すべきだ。

質とは物語だという場合もある。物語は量に還元できないからだ。 物語とは何か。それは時系列に沿ったイベントの連鎖である。連鎖の間にはなんらかの論理が働いている。それを記述することに意味がある。なぜなら物語は繰り返すからだ。そこにはなんらかの普遍性がある。つまり予測に役立つ。これで物語を科学の枠組みに入れることができる。