KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教員が持つべきテクニック

富山に戻ってきた。出張先の京都では、教育メディア学会の研究会に参加してきた。久しぶりの研究会だったので、楽しかった。

特定の研究に関することではないのだが、ひとつ感じたことがある。それは教育というのはひとつの技能であるということだ。「いや技能だけではない、すばらしい人格とのふれあいこそが教育の本質である」と反論されるのはわかっている。それでも、技能としてのみの教育を考えましょうということだ。だれもコンビニの店員に高邁な人格を求めたりしないでしょう? 正確にものを売ってくれればそれで必要十分なんだから。

そんなふうにして技能としての教育を考えると、どうも単純すぎるんだな。バカ正直といってもいい。サッカーで相手に勝つためには、真っ正面から突破するだけではだめで、フェイントとか裏をかいたりしなくてはいけない。それはインチキではなくて、賞賛されるべきテクニックなのだ。そういうテクニックを教員はもちあわせていない。

たとえば良い教材を作ったとする。それを無理矢理使わせるのは「押しつけ」でよくない。かといって「自発的に」使ってもらうのを待っていれば、途方もない時間がかかってしまう。「ジレンマだ」といって頭を抱えることになる。そうやって教師は「悩む」のが好きだ。悩んでいく姿こそが彼らのアイデンティティなのかもしれない。そういう自分が好きなんだろう。

しかし、そういうナルシストにつきあわされる生徒はたまったものじゃないね。ここでは、良い教材ができたのなら、それを「使え」と命令するのが正しいテクニックだ。あるいは「使ってみたら?」と示唆するのでもいい(権威からの示唆はたいてい命令と同じ効果を持つからね)。使ってみれば良い効果がでるのでハッピーだ。もし生徒が「それは押しつけだ。私は私のやり方でやる」と反発すれば、「おお、それこそが自発性だ、すばらしい」とほめることができるのでハッピー。つまり生徒がどう行動したとしてもハッピーになるということ。

これをもし「先生は君たちの自発性を信じている。思うがままにやってごらん」と言ったとしよう。教師がよく取りたがるポーズだ。思うがままにやれば、たいていそれは教師の思惑とは違うのでアンハッピー。かといって教師にヒントを求めれば、「自発性を信じている」ということを裏切ったことになるのでアンハッピーだ。いずれにしてもアンハッピーなのだ。

これは臨床心理学の領域でダブルバインドという名前で知られている。言われるとおりにしてもダメ、また、それに逆らってもダメという状況だ。心理学者はダブルバインドを逆手に取って「こうしなさい」と命令する。命令に従えば、うまくいくことになっている。もし命令に反発すれば、それを「自発的であるし、主張がある」とほめることができる。いずれにしてもうまくいく。こういうテクニックを教員は体得する必要があるのではないかなあ。