KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

分解できないシステムという見方

この前の教育メディア学会での研究発表で、こんなやりとりがあった。

ある教育番組を再デザインをして、さらに番組と連動するようなWebサイトを作った。これは、再デザインをして、それを評価することで「よりよくなる」ことをはじめから目指している。そうして、実際に再デザインをし、評価することで制作過程に良い効果をもたらしている(もちろんホーソーン効果も入っている)。アクション・リサーチ的な研究だ。

この発表に対して出された質問。「Webサイトを作ったことで全体の中のどの部分がどう変わったのか?」と。

回答。「それはわからない。全体のシステムとしては、適当な評価方法を使えば、評価はできる。おそらくWebサイトがないよりも良くなったといえる。でも、その中でWebはどういう役割を果たしたのかということはわからない」。

実験計画法としては、Webサイトのある番組の視聴と、それがない番組単独の視聴をさせてみればいいわけだ。しかし、それはWebサイトと番組とが加算的な関係にあることを前提としている。しかし、実際にはWebサイト込みの番組は、それがひとつの全体システムとして視聴者に見えているわけで、分解はできないのだ。

同じようなことが、PSIでも言える。PSI形式の授業では、プロクターと呼ばれる指導員が非常に重要な役割を果たすのだが、じゃあ、プロクターをふつうの授業でTA(ティーチング・アシスタント)として働かせれば同様の役割を果たすかというと、そんなことはない。自明のことだ。プロクターはPSIというシステムの中でこそ真価を発揮する。言ってみれば、PSIというシステムがプロクターをプロクターらしくさせる。プロクターという部品だけを取り出してみても、特に何かの役に立つというわけではない。

つまりは、部分に分解できないシステムという見方がどうしても必要なのであって、そこでは実験計画法はあまり役に立たないし、できないことが多い。授業研究が難しいのは、おそらく授業全体が、良くも悪くも、ひとつのシステムになっていて、それが分解しがたいというところにある。

そのシステムは、教師の「授業・生徒・教師についての信念」を中心にして体制化されるというのが私の洞察だ。そこでは、さまざまなポータブルな技術が利用されるけれども、その信念によって最終的には体制化される。だから同じ公文式でも指導者によって実に多彩なクラスがあるわけだし、それは、教育技術法則化でも、仮説実験授業でも同様なのではないだろうか。