KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

財貨とサービスのコミュニケーション

分析家は分析が終わると、必ずそのたびに被分析者に治療費を請求しなければならない、というのが精神分析のたいせつなルールです。決して無料で治療してはならないというのは大原則です。ラカンの「短時間セッション」は場合によると握手だけで終わることがありましたが、そのときでもラカンは必ず満額の料金を受領しましたし、料金を支払えなかった被分析者に対しては平手打ちを食わせることをためらいませんでした。「お金を払う」ことは非常に重要な「財貨とサービスのコミュニケーション」である経済活動にも参与することになるからです。

財貨とサービスのコミュニケーションということが気になっている。

タダだと思えば人はあまり学ばない。なにがしかの金額を払おうと決心するのは、この機会に何かを学ぼうと決めたときだ。これは、期待×価値理論とも合致する。もし何かを学ぶことに価値を見いださなければ金など最初から払う気は起こらない。そこになんらかの価値を見いだしたからこそ金を払うのだ。そして払う金額が高いほど価値が高いことになり、それと連動して動機づけも高くなる。(ただしやってみて成功する確率が低ければやる気は失われる)

私は、「教育はサービスの一形態である」と考えていた。確かに、最新の知識や手に入りにくい海外の情報を切り売りすることが教育の主要な機能であった時代であれば、それはサービスになり得た。しかし、今の時代は教育者経由でなくても最新の知識や世界の情報が手に入る時代だ。そこでの教育者の仕事は、ワーマンが言うようにナビゲーターの仕事に近い。

それは単なるサービスではなく、学習者との共同作業に近いものになる。教師が自分でやってしまえば、学習者は学習しない。逆に、教師が何もしなければ、学習者は途方に暮れる。共同作業には微妙なバランスが必要だ。バランスをとることこそが仕事である。そのためには、学習者に一度すべてを任せてもらわなくてはならない。明け渡してもらえない学習者とは、うまい共同作業がたぶんできない。

金を払うということは、サービスに関する契約関係を結ぶというよりも、学習者自身の意思の確認だ。この教師に自分の時間を任せるべきかそうでないか。金を払うと決心することは任せるということだ。もし、任せることはできない、と感じれば、その時点で金を払うのをやめ、その人のもとを去ることになる。

金を払うということも、また、金を払わない(金を払うのをやめる)ということも、コミュニケーションの始点と終点をきっちりと決める目印になっている。金を払うことで、共同作業を始め、金を払うのをやめることで、共同作業を終える。金を払わなければ、いつまでたっても始まらないことになる。同様に、金を払うのをやめなければ、いつまでたっても終わらないことになる。したがって、お金の動きは、最も明白であり、誰にでも意思表示できるコミュニケーションの目印という意味で重要なのだ。