- 作者: ダニエルグリーンバーグ,Daniel Greenberg,大沼安史
- 出版社/メーカー: 一光社
- 発売日: 1996/12
- メディア: 単行本
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先日ちらっと見た、北野武が出ていた特集番組で、サドベリーバレー校のことを知り、衝撃を受けました。本を探してみると、この本と『「超」教育』という本がサドベリーバレー校について書いていることを知り、読んでみました。
本人が、本人のみが、自分について決断をしなければならないのです。そして、自分の決断とともに生きていく。それは、ほかの人間が代わって考えることではありません。自分の行為の結末は自分が引き受けるべきです。うまくいかなかったからといって、他人に守ってもらってすむことではありません。自立し、自分で方向づけする人間になりたいなら、自分の運命の主になりたいのなら、これは譲ってはならない基本線です。
個々人の自己責任はまた、人間の基本的な平等を前提とします。権威はどんなものであれ、あらゆる当事者の自由意思に基づく同意に依らねばなりません。
この学校は徹頭徹尾こうした原則に基づいたものです。授業はありません。しかし、本人たちが習いたいというなら、協定を結んで教えることをします。
教科それ自体は、そんなに難しくないんです。では何が算数を難しく、ほとんど不可能にしているかというと、嫌で嫌で仕方ない子どもたちの頭に、無理やり教科を詰め込んでいく、あのやり方のせいです。毎日毎日、何年もの間ずっと、少しずつハンマーでたたき込んでいけば、さしもの子どもたちもいずれ覚えるだろう、というあの教え方です。しかし、うまく行くわけがない。だから見てごらんなさい。この国の六年生の大半は、数学的な意味で文盲じゃないですか。結局、私たちがなすべきこと、それは子どもたちが求めたとき、求めるものを与えることなのです。
この学校に来て毎日毎日釣りばかりしているダンという少年の例が出てきます。ダンは釣りをしながら何かを学んでいるというのです。何年かたってダンは釣りを卒業しました。15歳になるとコンピュータに夢中になり、17歳でコンピュータの販売・サービスをする会社を起こしました。
同じ興味を持つものが集まれば、学校コーポレーションを作ることができます。たとえば、学習ソースのコーポレーションや、図書のコーポレーション、出版のコーポレーションなど。
学年という概念がないサドベリーバレー校では、年齢が異なる者がさまざまに交流しあい、それが社会性を育てています。
さまざまな決めごとは、関心のある出席者が参加する全校集会によって、直接民主制のシステムで決められていきます。
子どもたちを格付けしないという理念の元に、評価も一切しません。
卒業証書が学校による公式な証明であるならば、そこにはどうしても「評価」が入り込まざるを得ません。ところが、それこそ、わたしたちがサドベリー・バレー校から追放しようとしたものなのです。(中略)正式の卒業証書を求める生徒は、その旨を学校の仲間に告知し、自分が卒業後も責任ある市民として社会に貢献できることを証明しなければなりません。そのためには、仲間やスタッフらの心に響き、納得させるだけのプレゼンテーションを行わなければなりません。(中略)申請を認めるかどうかは投票で決めます。たしかにこれも評価といえば評価になるでしょう。しかし、それは生徒本人がハッキリと求めた者です。ですから、わたしたちとしては喜んで決定に加わります。
理念としてはアドラー心理学のそれを強く感じますが(個人の主体性、貢献の概念)、アドラーの言及はありません。また、ニイルのサマーヒル学校については、運営の方法として参考にしたという言及があります。確かに、ニイルの理念を日本で実践している「きのくに子どもの村学園」(http://d.hatena.ne.jp/kogo/19990311、http://d.hatena.ne.jp/kogo/19990312)に近いものを感じました。
しかし、それにしても筋金入りです。