KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「愛の貧乏脱出大作戦」その後のチェック

 テレビ東京でやっている「愛の貧乏脱出大作戦」については以前の日記で取り上げた。涙を流して修行し直した末、自分も生まれ変わって、店も新装開店して、お客さんがたくさん来て、というところで番組は終わる。さて、その後何ヶ月かたったら、その店はどうなっているだろうかというチェックをしていた(この内容は首都圏では去年の年末に放映されたらしいが、富山では今日流されていた)。

 大部分の店は新装したときの水準を保ち、お客も来ているわけだが、やはり一部の店はもとのようにダメになっている。あれだけつらい修行に涙を流してまで耐えたのに、もとのようにいい加減な料理を出してしまう人がいる。まあそれが人間らしいというか、ちょっとほっとするのだが。

 いや、もちろん修行の先生役になった人や番組スタッフ、そしてみのもんたにとってみれば、自分たちも努力したし、何よりも本人が一番つらい思いをして努力したのに「なぜ?」と考えるところだろう。でも教育というプロセスを研究してる者にとってはそれが自然であると考える。つまり教育の歩留まりということだ。どんな教育でも歩留まりということがあって、それはけっして10割にはならないということなのだ。むしろこの番組での修行的教育は9割方成功しているという意味で高い歩留まりを誇っている。まあこれはいろいろな人にお世話になったということや、番組で放送されたからというプレッシャーが相当効いているという効果を込みにしての歩留まりではあるけれども。

 厳しい修行、本人の努力、放映されたことのプレッシャー、と三拍子そろっていても、元のようにダメになっていってしまう人はいるのである。この事実を味わいたいと思う。逆に言えば、なぜダメになるかを詳細に追っていくことによって教育研究に貢献するところがあるのではないかと思う。厳しい修行の効果は永続的ではないのか、新装したときの人気が慢心を誘うのか。

 見ていると、次々と新しい商品を開発したり、メニューを増やしたりして努力している人は成功する。しかし、修行を終えた時点の水準を超えようとしない人はダメになっていくということが分かる。はたして、その分岐点では何か効いているのか。涙を流して「自分は変わった」と言ったとき、本当に変わったのか、実は変わっていなかったのか。その見分け方ができれば面白いと思う。