KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

学力のデフレスパイラル

——調子はどうだい?

まだちょっと咳が残っている。奥様も、つわりと風邪で実家にお世話になったまま。あいなちゃんも風邪をひいていて、鼻水をたらしている。でも甘い飲み薬が好きなので、薬の袋をがさがささせると目を輝かせている。私は妻の実家と自分の家を行ったり来たり。だからバドミントンもなかなか再開できない。もう丸二週間お休みしている。

——そりゃ大変だな。まあ、のんびりやることだ。無理しないこと。

きのうの「大学の授業が成り立たない」の話題に関係するんだけどね。5月13日付けの朝日新聞の「よい教育?(中)」という記事の中に、「学力のデフレスパイラル状態」という怖い話題がでている。

——どうでもいいけど、あなたが取り上げる新聞記事はどうしてちょっと前の日付のものが多いのかな?

大学で朝日新聞をとっているんだけどね、それをとっておいてもらって二週間に一度くらいまとめ読みをするんだ。おもしろそうな記事は切り抜きながら。新聞を切り抜いても後でそれを利用することは99%ない。だから、こういうところで言及してあとはそのまま箱にいれておくだけ。ここに書くことで頭の整理をしているのかもね。

——なるほど。で、学力のデフレスパイラルというのは何?

東大の苅谷剛彦さんの話なんだけどね。小学校の教師にアンケート調査をしたところ、「分数のかけ算・わり算を教えることができる」と回答した先生はたったの3割だったんだそうだ。

——なに? 分数のかけ算・わり算を教えられる小学校教師はたったの3割なの? いったいどうなってるの?

そう。教師の学力問題は教育界ではタブーなんだそうだ。しかし、実態はこういうことだ。学力のデフレスパイラルというのは、少子化で(教員養成系の)大学に入りやすくなる→教師になる人の学力が下がる→その教師に教わった子がまた教師になる……という具合に、とどまるところなく学力が低下していくという現象だ。

——タブーだかなんだか知らないけど、そういうことを問題にしなくていいのかい?

だって、「大学教員の学力問題」とかに飛び火してきたらまずいじゃん。

——おい!

いったい何を学力として身につけるべきかという議論が必要なんだが、文部省の「生きる力」などというきれいなことばでごまかされてしまっている。これは理想論や建前であっても、教育政策のことばではない。「分数ができなくても、生きる力があればいい」という物言いが成立する。この記事はこうした点を明らかにしている珍しいケースだ。

——いったい「生きる力」というのはどう定義されるの?

知らない。おそらく定義できていないと思う。ここで必要な定義は認知・行動レベルの定義だが、そういうことは考えてもいないだろう。教育心理学や教育工学の蓄積はこうした教育政策決定に実は何も影響を与えていないのではないかという、無力感にとらわれるね。

——教育を科学のことばで議論できるようにならないとダメだね。人工知能はそう予測する。