KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

無責任に書き散らした文章のおかげ

——君が最近、無責任に書き散らした文章のおかげでいろいろなところで話題が飛び火しているぞ。

——たとえば、「毎日の記録」の5/31で筑紫哲也のまとめ発言について:

「誰かのせいにするのはやめよう」っていうのは、傍観者のつもりでいる人たち にも行動を起こして欲しい、つまり、「あなたにも責任の一端があるんですよ」と いう意味ではないのか。彼の3つの指摘というのは、全部、この視点に帰結している。 具体的に、何を考えるべきか、何をするべきかは、各自で考えればいい。それが、 民主主義。

——それから同じく、科学の方法について:

複雑な問題を取り上げる場合に、一つの要素だけを取り上げて、厳密に検討する ことが科学であるというならば、人文・社会科学は、机の上の遊びでしかない <スタート時に、既に、現実と乖離しているから。自然科学もしかり。 複雑な問題を扱うことの出来る手法を持たない人たちによる、「科学」 という概念のワイショウ化、なのかもしれない←自己反省を込めて。

——虚数なんて使わないということについて「Santa Rosa がりゅう日記」の5/31で:

「自分はサインコサインや虚数なんて知らないけど、困ったことはない」
「加減乗除で十分。それ以上知っていても、なんの役にも立たない」
「科学者やエンジニアになるんじゃなければ、そんなことを若いうちにやるより、もっと大事なことがあるはず」
じゃあ、例えば... 美術は?小さい頃に絵を書いたり粘土で何か作ったって、ほとんどの人の生活には直接影響ないし、役に立たないと言えるんじゃないの?
「それは心を豊かにして、生活をの幅を広げる効果がある。数学とは全然違う」

家庭用電流がサイン波の形をしていることを知ったり、お金を預けるとどういう風に利子が増えていくかを知ったりする事は、しっかり生活の幅を広げることになると思うんだけどなあ... まあ、自分が知らないものを「必要ない」と断じてしまったところでもう議論にはならないんだろうけど、「苦手だから嫌い」と言った方が話がすっきりしている気がするなあ。

——「凹型効用日記」の5/26で、虚数は使われていることについて:

虚数複素数)は基本的に実数を2次元に拡張したようなもので、これはまだ概念的に頭にすんなり入ってこないわけでもない。例えば、電子回路に使われるパーツに抵抗、コンデンサ、コイルというのがあって、これらに交流をかけることを考える。(中略)で、この虚数をさらに拡張した四元数というのが存在する。

——「Island Life」の5/26で虚数というもう一つの目について:

虚数って通常の生活ではやっぱり使わないかな ( ちはるの多次元尺度構成法, 5/25)。 あれを習ったのは中学校だったか高校だったか忘れたけれど、 私にとって複素数という概念は「知識」でも「道具」でも無く、新しい物の見方、もう一つの目だった。 今まで見えていた実数という世界の外側に、別の世界が広がっていたんだという驚き。 こんなふうに感じてしまったってことは、 そっちの世界向きの人間だったってことなんだろうなあ。

——メールで東北大学の院生の中村光伴さんから、3割の教師しか分数の計算が教えられないことについて:

厳しい採用状況=分数の計算が教えられるとは結びつかないと思いますけど?知識として知っている=教えられるとはならないですよね?実際、私は分数の指導はしたことがありませんが、「分数は教えるのが難しい」という事も聞いたことがありますけど。

——「I/O Exceptions」の5/27で、学力のデフレスパイラルについて:

最初の「授業時間が減る」というのは事実。でも、その結果起こるのは、単に学力の低下というのではなく、プロセスの欠落ではないでしょうか(その結果としての学力の低下も含む)。

少ない時間の中で情報を伝達しようと思えば、どこかを端折るしかない。そのしわ寄せがどこに来ているかといえば、おそらく、結論に至る過程。ごく限定的な例としては、数学だったら定理を導く過程、理科なら実際の実験などの部分。過程をとばして結論だけ教えるというのは割と簡単だし、それがなくてもが受験に差し支えないというのも一因か。ピタゴラスの定理を使えない大学生はそういないと思うのですが、定理が成り立つ理由を説明できる学生は(数学を使わない学部では)少数派かと。

これが教員養成において問題になるのが、教師が授業で教える為に必要なのが、その省略してしまった部分ではないかということです。教えている教師が、なぜそうなるのかを理解していない、すなわち教える能力の低下です。 (中略)

教師の採用というのが、どのようになされているのかは存じませんが、「教える能力」ではなく「学力」を基準にしているのなら、このスパイラルに歯止めをかけることはできないでしょう。教える能力の定量化というのは、なんとなく難しそうだなと。

——掲示板でりなりなさんから、教師というものの謎について:

友人の学校(当時)には音楽教師で、でも音楽に関する仕事以外は何も受けないという人がいたそうです。その分は結局は同僚教師がとばっちりを受けている訳ですよね。そんな人は一般企業だったら首になってもおかしくないと思うのですが、教師の世界(?)では解雇はできないそうなんですよね。そういうものなのでしょうか。そして、校務分掌は、拒否して周囲の人に迷惑をかけても教師として許されるものなのでしょうか。

そんな世界を私は「生ぬるい」と言ってしまいました。彼女らには彼女らなりの苦労があるのは分かってるんですが…。

——同じく掲示板から野猿さんから、谷山浩子の歌/感動について:

谷山浩子の歌詞の一部に、
「教室の窓がもう見えない 夢の行き場がどこにもない」
というのがあり、本人はこのいかにも紋切り型の表現をとても嫌っているのですが、多くのファンがこの歌詞を「感動しました!」と賞賛するので、谷山氏はとても困惑しているそうです。

——ネットナンパについて、あるひとのメールから:

それより・・・
あたしってネットナンパ師だったのか(笑)
女性をひっかける女ネットナンパ師。うーん。いいのか悪いのか・・・

ちなみにボージャック夫人は人工知能が自動筆記しております。

ふう、人工知能。よくもまあ、これだけ引用してくれたね。こんなたくさんの引用を全部読んでくれる人なんかいるわけないだろ。それでは、今日はこのへんで…。

——おい! おいっ!