KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

授業の値打ち

長岡で開かれている、アドラー心理学基礎講座(理論編)に参加した。1日6時間で、合計4日間を、2回の土日で行う。

お勉強が楽しい。たくさんノートを取る。なんでこんなに楽しいんだろう。たぶん、自分で決心して、時間を作って、お金を払って、聞きに来ているからだろうね。あ、もちろん講義の内容が面白くなければ、こんな決心はしない。

講師の野田先生は自分のWeb日記(7/29)でこんなことを書いている。

私は、佛教大学文学部仏教学科の通信教育を受けていたことがあるが、スクーリングのときの講義がとても面白かった。私だけではなくて、他の受講生も熱心に聴いていて、私語をする人も居眠りをする人もいなかった。むかし、医学部で講義を聴いていたころは、しかし、そんなに面白くなかった。それどころか、「早く終わらないかな、眠いな」などと考えたりしていた。ときどき居眠りもしたし、サボったりもした。

じゃあ、客観的にみて、佛教大学の仏教学の講義はよくできていて、医学部の講義はできが悪かったのかというと、けっしてそんなことはない。今、タイムマシンで昔に戻って、医学部で解剖学なり内科学なりの講義を聴かせていただくことができるとすれば、感動的に面白いに違いないと思う。教える立場になってはじめてわかったのだが、教師はたいへんな量の下準備をして、全力投球で講義をするのだ。実際、むかしの医学部の先生方の講義を思い浮かべて、そう思う。実に実にありがたいお話をしてくださっていたのだと、今になるとわかる。だから、悪いのは私のほうなのだ。猫に小判というやつだな。講義の値打ちがわかっていなかったんだ。

向後さんにこんな話をしていたら、彼は看護学校にも教えにいっているのだが、卒業生が聴きにくることがあって、学生とは熱心さがまったく違うというようなことを言っていた。また、彼自身が、いまは私の生徒をしているわけだが、とても熱心に聴いてくれている。大人になって、みずから必要を感じて講義を聴くとき、はじめて講義の値打ちを鑑賞する能力ができるのだ。

そう思う。今から考えると、私も大学生時代のさまざまな授業を「猫に小判」の状態で、聞き逃していたと思う。

しかし、そんな時代でも、ピンと来る先生はいたので、そうした先生のゼミなんかに潜り込んで話を聞いたものだった。そういう先生に限って授業では巡りあうことはなかった。探して、潜り込まなければ、出会うことはなかった。しかし、実はこれは、逆なのだろう。つまり、探して潜り込んだからこそ、その先生の話がピンと来るものであったし、聞いて貴重なものになったのだ。自分で探して、決心して、接近したからこそ、その先生の話が自分の実になったのだろうね。

そう考えると、今の大学で、よりどりみどり、どれでも好きな授業をお取りなさい、というシステムはどうなのだろうか。講義の値打ちを鑑賞する前提条件はあまり整っていないような気がする。単位を取るために義務で聞くような体勢では、面白いものは発見できない(それでも面白がらせるのが教育工学の課題のひとつではあるけれども)。みずから必要を感じて、時間と金銭を払って聞くときに値打ちがわかる条件が整う。

大学改革が言われているけれども、こんなささいなところ、しかし重要なところ、を考えて変えていくことが必要なのではないかと考えている。