KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

初めてのアメリカ日記・まとめ

大学の捉え方の違い---自分のキャリアへの投資

本屋に行くと、「どの大学に行くのがベストか、お買い得か」という特集の雑誌が平積みにされている。大学の学費は安いものではなく、まさに大学に行くことは自分のキャリアへの投資であるととらえられている。また、大学側も学生からの投資を満足させなければ大学の生き延びができないわけだからそれに応えようと、必死でコースやプログラムを開発する。そしてそれを評価する機関が機能する。大学の教員スタッフは流動的であり、グループで他の大学に移ったりすることもある。

日本では任期制の導入が進められており、それに反対する運動も盛り上がりつつある。日本型任期制がいいか悪いかは別にして、いずれにしても、大学教育を受け持つ側を評価するという行為と彼らをマネジメントする行為が実質的に欠けていたのは事実であるから、具体的な方法はともかく、この動きは押し止めることは出来ないと思われる。必要なのは任期制にただ反対するのではなく、評価機関の設立や整備、スタッフにおいてイニシアチブをとって進めていく積極性ではないだろうか。教育・研究を知らない文部省のお役人に適切な評価ができることは期待できないのだから、その仕事を先取りする先見性がないと、それこそ大学教員コミュニティの集団自殺である。

日米の教育工学の違い---再びシステム

企業内における教育や人材開発は投資の一種であるから、そこには当然、効果の大きさ、効率の良さ、コストパフォーマンスの良さが厳然として追求される。その仕事は、専門家や外部に委託されることが多く、そこに教育工学者が働き、活躍する場が見いだされる。また教育工学研究者も自分の研究仮説や理論を実際に試す場として、企業内教育を活用することができる。

また、一方で学校教育の場でも、日本のように中央集権化していなし、また「出る杭は打たれる」という現象も少ないので、その学校なり学習コミュニティの中から出てきた切実なニーズによって、教育工学者を巻き込んだ開発や実践研究が各地で行われている。

以上のように、アメリカにおける教育工学の研究は企業でも学校でも鍛えられてきている。鍛えられるという意味は、現象を観察し、アイデアを出し、現場で実証し、理論化するというサイクルが「地に足がついた」状態で回転することが指向されているということだ。日本でしばしば見られるように、ただ学校現場べったりという研究やただCAIプログラムを作ってみました、あるいは、教育とどういう関係があるか理解しがたい「理論的」研究、というようなものは研究として認められない。つまりすべての科学的研究がそうであるように仮説・実証・理論化・予測というステップがなくてはならない。

ここで、最初の「システム」というキーワードに戻れば、アメリカでは教育もまたシステムである。一方日本では、教育は「アメリカ的システム」としてはとらえられず、まず「人間関係」---先生と学生の、また学生と学生の---なのである。日本の教育研究の弱さは、「誰々の教育実践」というタイトルに象徴されるように、個人で行われたすばらしい教育実践をシステム的に分析しきれていないというところにある。そうかと思えば、「法則化運動」のように表層的なノウハウという反対の極端に走る。誰々さんの実践はマネができない、と宣言してしまっては、科学としての教育工学の存在はあり得ない。

もしアメリカの教育工学から学び、輸入すべきものがあるとすれば、このシステムの考え方ではないだろうか。アメリカにおける教授・学習理論には構成主義の嵐が、研究方法論にはエスノメソドロジーの嵐が吹き荒れているが、その中にあっても、システムの考え方は揺るがない。むしろそれらをシステムの中にどのようにとりこんでいくかを模索しようとするという力強さがある。そこには、日本人には当たり前すぎて思いもよらなかった、EQ(感情的知能)ですら開発してしまおうという信念の力強さがある。

終わりに

今回の滞在では、大学関係者、研究者、大学院生からじかに話しを聞き、実状を知ることはもちろん貴重なことであったが、同時に、街を歩いたり、公園を散歩したり、スーパーで買い物したり、地下鉄に乗ったりすることによって、アメリカの人々の暮らしを肌で感じることができたことが何よりの収穫であったような気がする。これはやはり一週間程度の短い旅行ではできないことだ。

アメリカにはまた何度か来るような気がする。

今回はたいへん幸せなアメリカ初体験であった。