KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

初めてのアメリカ日記・まとめ

先週の16日にアメリカから帰ってきた。一ヶ月半のアメリカ滞在は正直におもしろかった。一番の収穫はアメリカの日常生活を肌で感じとることができたことだろう。さまざまな日常的体験談や失敗談は、これから先思いついたらすることにして、まず、今回の旅行で感じたことをまとめておいたので、それを載せることにする。ちょっとまじめすぎるかもしれないが、どうぞ。

広いアメリカとシステム

アメリカが広大なことは飛行機、鉄道、自動車で各都市をまわってみて実感した。しかもまだまだ人間の手がかかっていない土地が残されている。この広大な土地に、さまざまな人種が住んでいる。英語はもちろん商業的な共通語だが、日常的にはスペイン語をはじめ、各民族のオリジナルの言語がとびかっている。

こうしたバックグラウンドの違う人間が最低限うまくやっていくためには、システム的な考え方が必要だったのだ。もともと個人差のあるマンパワーをうまく束ねて大きなことをするために、システム的なアプローチが必要だったと言える。一方、日本では、「みんなで力を合わせて」という考え方が自然になされる社会であったので、システム的な協力の仕方が自発的にできていた。この点で、アメリカのシステムは、マネージャやマネジメントを専門とする人が作り、運営されているのと対照的である。日本では一般にマネジメントという考え方が希薄である。だから自発的なシステムがうまく動いている間はいいが、いったん人間関係がぎくしゃくすると---それはよく起こる---簡単に全体のシステムが壊れてしまうということになる。

これが同じ「システム」といっても日米では捉え方が違う点であるように思う。一口にどちらが良いとは言えないが、私の目には、アメリカの場合、あまりにもマネージャーと労働者が分離されているように映る。また、職務記述が厳格になされていて、どこからどこまでが自分の仕事の範囲であり、どこからが責任の及ばない範囲かが明確なので、労働者が、いわば決められた単純な歯車の一つになってしまいやすいとも言える。こうした背景からアメリカで動機づけの研究がさかんであることが納得できるような気がする。それは勤勉に仕事をしてもらうためにはどうしたらいいのかという切実な問題意識があってそこからでてきているのだろう。

あえて言えば、日本で言うシステムとはつまり「人間関係」である。一方、アメリカで言うシステムとは命令系統やフィードバック、報酬、評価などの「情報の流れ」であると言える。

しかし、アメリカで人間関係が重視されていないかと言えば、それは逆で、本屋のサイコロジーの棚に人間関係、夫婦関係、の本がずらりと並べられているのを見れば分かる。アメリカの一般書店のPsychologyの棚は、日本で言えば、「生き方・人生論・人間関係」の棚に相当する。また日本でも翻訳された「EQ」の本がベストセラーになったことでも分かる。また心理カウンセラーが十分ペイする職業であることからも分かる。ついでに言えば、アメリカではPsychic reading(超能力占い?)の宣伝がやたらに目につく。ニューヨークに来てから、どうも「孤独なアメリカ人」というイメージを持つようになった。

いずれにしても日米では同じ「システム」と言っても、そのどこに力点を置くかが違っている。どちらが良いとも言えないが、収束する点は同じ方向を向いているような気がする。

コミュニティ

もう一つのキーワードは「コミュニティ」ということだ。訳せば共同体だが、自分の住んでいる地域を守り、よくしていこうという意味あいがある。日本で言えば、村や部落が相当するが、日本でのそれが、その土地に固着し、ある種排他的な色合いを持つのに対して、コミュニティではむしろ外からの住人を引きつけ、受け入れ、自分のコミュニティを開発していこうという感じが見て取れる。この背景を理解するとコミュニティ・カレッジの役割も推測できる。また、そこの住人としてのコミュニティへの貢献は非常に高く評価されるのだ。逆に言えば、コミュニティへの貢献は義務的になっているとも言える。

教育の研究フィールドで「学習コミュニティ」などのキーワードが出てきたときに、単に仲良く勉強するのかというくらいのイメージしか持てなかったが、もっと強い意味あいがあることが推測される。つまり、学習コミュニティでは、学習という価値観の元に、自らの共同体の価値を高めていくことが指向され、メンバーはそのために貢献するという義務を負うということだ。そしてそれは自分のコミュニティが生き延びていくために必要なことなのだ。それがうまく行かなければそのコミュニティはスラム化してしまう。

日本では、もともとコミュニティ的な意識が希薄なところに、学習コミュニティや学校コミュニティと言ったところでなかなか理解しにくいかもしれない。しかし、たとえばいじめの問題の解決策はもしかしたらこのキーワードにあるかもしれないと思ったりする。しかし、その前に自分の所属する学校コミュニティを自分の運命として考えることが前提条件なのだが、自分の所属する学校を自分で選んだという意識が希薄であるから、なかなか難しいのだ。大学ですら、学生も教員も同様に、コミュニティ意識はほとんどないのではないだろうか。