KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

なぜ推薦制度を廃止すべきか?

 毎年、一人か二人の学生が、私のいる情報教育コースをやめていく。このコースは一学年20人であるからけっして無視していい割合ではない。とはいえ、めくじらをたてるほどのことでもない。一年か半年やってみて、このコースが自分に合わないと思ったらさっさとやめて、他の道を選ぶべきだ。

 20人のうち5人は推薦制度ではいってくる。推薦とはいっても高校はたくさんあるから、高校からの推薦書や成績、そしてこちらでおこなう小論文試験で、実質上は競争的選抜をおこなう。こうしてはいってきた学生にも、このコースを辞めたいという人がでてくる。私は推薦ではいった学生も辞めたいと思えば、自由に辞めたらいいと思う。

 しかし、推薦ではいったのに途中で辞めるとはけしからん、その出身高校にはなんらかのペナルティを課すべきだ、というような主張をする人は少なからずいるのである。私は、推薦書の(意図的ではないにしても)ウソやその学生の適性を見抜けなかったわれわれの側に落ち度はあったとしても、その学生や出身高校になんの罪もないと思う。

 この小事件で推薦制度について考えてみた。その結果、推薦には制度的な欠陥があるのではないかと考えるに至った。そしてまた、これまでに何回となく入試制度をいじくり回してきた自分に反省が必要なこともわかった。それを以下にまとめてみたい。

公平さと透明さの原理

 競争試験のもっとも大切な原理は、情実のはいり込む余地のない公平さと透明さの確保である。前期・後期試験はこの点合格である。しかし、推薦入試では、妥当性と信頼性の低い小論文試験と高校からの推薦書で合否が決まる(ちなみに高校の成績ではほとんど差がでない)。高校からの推薦書も丸飲みはできない。たとえば、「コンピュータ・クラブで活躍してきた」と書かれた学生が「もうコンピュータはいやだ」と言って辞めるケースもあるのである。

 われわれは、コンピュータ・クラブでやってきたならばきっとコンピュータが好きに違いない、とあまりにも単純に信じ込んではいないか。BASICで簡単なゲームを組んでみました程度のことをやってきた学生よりもむしろ何もしてこなかった学生のほうが可能性が花開く場合もあるのだ。

 コンピュータ・クラブにはいることが推薦で有利に働くならば、形だけでいくらでもはいる学生が増えるだろう。もはや信頼はできない。いっそのこと、情報処理技術者試験2種の合格証書を持ってくれば入試を免除するとしたほうが透明、かつ公平である。

 また来年度からは推薦入試に面接が導入される。しかし、そうしたところで、受験生は自分の不利にならないように答えるだろう(それがルールだ)。はきはきと明るい(しかし内省力の弱い)学生が有利になり、もじもじして暗い(しかし思考力に勝る)学生が不利になるだけなのだ。面接の導入はなんら本質的な解決にはなっていない。

多様な入試で多様な人材が集まったか?

 推薦入試を支持する理由の一つとして、多様な選抜方法を取ることによって、多様な人材を集められる、ということが挙げられる。しかし、これには疑問を抱くべきである。推薦入試をすることは、ただ推薦入試に有利な学生を入学させたということだけなのである。もう少し言い換えてみよう。たとえば、百メートル走のタイムで合格を決めるとしたとしよう。それはただ百メートル走の速い学生を合格させたということにすぎない。それで合格した学生が「多様な」学生であるかどうかとはまったく独立なことなのだ。

 逆に、センター試験が画一的だというよくなされる批判をもう一度考えてみよう。もちろんセンター試験は画一的だ。受験生の性格もみないし、背の高さ、体重、顔の作りも見ないし、足の速さも見ない。だからこそいいのである。センター試験は多くは選択式の設問の集まりであり、それ以上のものではまったくない。人間という多様性の存在のたった一面を測定しているにすぎない。だからこそいいのである。つまり、センター試験で測られる点数が一面的なものであるからこそ、その人材の多様性に期待をかけられるのである。この逆説を深く味わいたい。

 センター試験で失敗した人の個性を育てるチャンスが失われたと嘆く人がいる。そういう人は、逆にセンター試験以外では浮かび上がることのできなかった人の人生を開いたかもしれないと言う可能性を想像することのできない偏り人間だ。たかがセンター試験の失敗でつぶれるような個性は、一生かかっても花開くことはないと予測するのが論理的というものだ。

入試センター試験に勝る試験は今のところない

 なにかあるたびにセンター試験に批判が集まる。しかし、まず次のことを確認したい。妥当性、信頼性においてこの試験に勝る試験はないということだ。良い試験は、良い設問の積み重ねによって構成される。良い設問は、それをつくるのにかける時間と人手に比例してできあがる。センター試験はそれだけの時間をかけている。したがって、競争試験をやるならば、最も精度の高い物差しである、センター試験を使うのが最も良いのである。

 それでも偏差値至上主義だと批判の矢が飛ぶ。この批判は一種の宗教である。偏差値至上主義反対を叫んでいれば、良識派に見られるという宗教である。ちょっとでも考える頭があれば、偏差値至上主義がシステム上、もっとも公平で透明な制度であることがわかるはずだ(それがわからない人は宗教を信じているに等しい)。またセンター試験の内容についても、その妥当性が常に検討されているために、難問奇問が減っている。

 あえて注文をすれば、センター試験を年四回やってほしい。それは受験当日たまたま調子が悪かったという学生を救い、試験に弱いタイプの学生にも複数のチャンスを与えることによって、ストレスをかなり軽減するだろう。

 もちろんセンター試験複数回おこなうにはコストがかかる。しかし、テストのアイテムバンクをつくったり、オンラインでパソコン上で試験を受けられるようにすることで会場の設営コストを最小限におさえることなどによって解決できる。

入試の最終形

 入試の最終形は、こうだ。良質のテストアイテムバンクを作り、年に何回か受験を認める。端末室を利用してオンラインで受験し、即時に点数を返す。一定水準の点数を持って入学資格とする。

 それが実現するまでは、次のようにするのがいいだろう。

  • 推薦制度は廃止する。
  • 二次試験は点数を撹乱するだけなので、採用しない。
  • 前期試験はセンター試験の点数のみで合否を決める。
  • 後期試験はセンター試験で不本意な点数だった人を想定して、センター試験で基準点以上の人を対象に、知能テストのようなもので合否を決める。

反省

 入試に関して反省すべき点がある。それは入試制度をいじり回したり、あまりにもコースの独自性を出そうとユニークな入試をおこなうことは、少なからず高校の授業そのものに影響するということだ。

 コースのユニークさを出すのは、学生がはいってから十分やればいいことなのであって、入試においてはあくまでも、公平、透明、シンプルの原則を貫いたほうがいいのではないかと今考えている。