KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教育工学関連学協会連合大会

 教育工学関連学協会連合大会に出てきた。長い名前だが、三年に一度、教育工学会などの学会・協会が合同で年次大会をするものだ。電通大で三日間の日程であったが、毎日朝から通って、我ながらよく勉強させてもらった。惜しむらくは、テッド・ネルソンの講演が最終日の最後のプログラムに置いてあり、飛行機の都合で聴けなかったことだ。

 昔は、学会というと、自分の発表が始まるまでは他人の発表など聞く余裕はないし、自分の発表が終わるとそれで舞い上がってしまって遊びにいってしまうというパターンであった。要するに学会の発表からなにかを吸収するということがなかった。しかし、今はそれなりに経験を積み、自分の発表だけで手一杯ということもなくなってきたから、他の人の研究発表を聞くのが実におもしろい。

 発表を聞いて、ヒントをつかんでメモを取り、質問をする。こんなふうにして、1年分の研究のネタをため込むのだ。実験にしても、授業実践にしても、真摯にそれに取り組んでいる人の報告からは無限のヒントが得られる。そして、それが私の萎えそうになる研究への熱意を復活してくれるのだ。

 さて、思いついたことを次に書いておこう。

質問は研究発表者の勲章

 今回は、向後、石井、浦崎の3人が一件ずつ発表した。発表が終わっての質問は発表者の勲章である。もちろんたくさん質問の手が上がるほどうれしいわけで、質問がなくしーんとしているのは、壇上から逃げ出したくなる気分だ。

 私の発表が終わった直後はまさにしーんとしていた。さみしーい気分になりかけたところで、それを哀れに思ったかICUの中野照海さんが質問してくれた。仏にあったような気分であった。それに続いて、阪大の水越さんもコメントをくれた。都合2ポイント。

 石井君と浦崎さんの発表は完全に時間が重なっていたので、石井君の出だしを見てから浦崎さんの方に移動。浦崎さんはちょいと早口ではあったがすばらしいプレゼン。惜しむらくは、時間よりも発表が早く終わったので、ベルふたつを司会者がみっつと勘違いして質問を打ち切ってしまったことだ。そうでなければ、もっと質問がでたのに。質問ポイントは2。

 石井君のプレゼンは、始めを少し見ただけで、落ち着いているし、いつもの調子だったので安心して部屋をあとにした。石井君の報告によると質問は4件でたそうだ。したがって、今回の「向後ゼミ学会発表賞」は石井君の発表に与えることにする。賞品は出ないんだけどね。おめでとう。
 

大学入試センターはきちんとした仕事をしている

 チュートリアル大学入試センターの人が話すというので出てみた。あまり人気はないだろうなと思ったが、案の定10人程度の参加者。しかし、参加者はみんな熱心、入試センターの岩坪さんの話も、めったに出ることのない実際のデータをどんどん見せてくれて、興味深いものだった。私はこういう人気のないプログラムが好きなのだ。人気のないプログラムはたいてい根本的で重要なことを扱っているのが不思議だ。流行には乗るが、根本的なことには目を背けたくなるのが人間なのかもしれない。

 岩坪さんの話は、「教育目標はもっと遠くに」という言葉に象徴されるように、目先のテストではなく遠くを見て教育をしてほしいということが通奏低音として流されていた。哲学のある人である。

 入試センターはきちんとした仕事をしている。テストのデータの分析テクニックとそれをフィードバックして良い問題を作っていく仕組みが良くわかった。たえず問題の適切さの分析をしている。しかし、その一方で限界もある。問題を作る人が何年かごとに交代することはこのフィードバックを完全には活かせない原因になる。問題を完全に公開しているために、アメリカのような年に何回も受けられるようなシステムに移行しにくい。

 岩坪さんは、センター試験には限界があるし、マークシートではかれないものを、個別試験で測って欲しいともいっていた。諸悪の根元のようにいわれているセンター試験であるが、裏方はこうした謙虚な立場でやっているのだ。

個々の研究発表

 池田央さんの発表は、アメリカにおけるコンピュータベースのテストシステムがどこまで進んでいるかということを紹介するものだった。これを聞くと、アメリカと日本の差が絶望的に広いということを感じざるを得ない(入試センターはちゃんと仕事をしているのであるが)。さらに、最近の動向としては、「論述エッセイもコンピュータで評価できる」という域に達しているとのことだ。これはリサーチする価値がある。

 ICUの中野照海さんの大学院生たちはマルチメディア、ハイパーテキストの教材について基礎的で重要な研究を着実に進めている。地味ではあるが注目すべきだ。研究の視点が私のそれに似ているので親近感があるのも事実。

 今栄さんの、中学校では情報の授業をやったあともコンピュータ不安は下がらないという調査結果は重要。やはり大サンプルの調査には迫力がある。

 大谷尚さんの教室のエスノグラフィックな研究。子どもは孤立化を望まないので、他の子に教えにいくと。そういう文化があるのだと。私の疑問は、小学校ではそうであっても、中学、高校、大学に進むにしたがって消えていく文化にはたして何の意味があるのだろうかということだ。それはファンタジーなのではないか。学校文化論でどこまで切り崩していけるのか。今はそれしか道がないようなのだが。質的研究が広まったというよりは、そこに追い込まれたというように私には見える。

二つのシンポジウム

 「創造性」と「情報教育教科」についての二つのシンポジウムには、認知科学代表(?)としてそれぞれ佐伯さんと三宅なほみさんが出ていた。シンポジウムの内容は別にして、そこで私に感じられたのは、認知の人は、教育工学の多数派とは見方が違うということだ。たとえば、佐伯さんは「自分で考えてごらん」や「ヒントは○○です」という教師の言い方に「見えざる権力(フーコー)」を発見する。三宅さんは、授業と連動したニュースグループの利用で、スレッドの長さ(発言とコメントの連鎖の長さ)によってどんな授業かが見えてくるという。

 そうか、教育工学の中でどんな立場を取るかは、授業の中に何を見るかということに規定されるのだ。学校文化にどっぷり浸かっている教師は、授業を見たとしても、学校文化の特殊性に気づくことはない。したがって研究のスタンスもその文化の延長上にある。認知科学者の役割は、それが特殊なんだよ、ということを見て取って研究としてフィードバックすることにある。しかし、教師たちはそうした指摘を受けても大抵は何をいわれているのかわからず、当惑するのである。

 シンポジウムのやりとりの中で、ときおりかいまみえた研究者同士の食い違いはこんなところに起因するのではないか。

余談

 毎年、教育工学会では論文賞を決める。その年に掲載された論文の中で優秀なものを選ぶわけだ。ある人から話を聞いたのだが、私の論文は論文賞を決める投票で3位だったそうだ。1位と2位が論文賞になるので、次点というわけである。もとより論文賞候補になるということも考えていなかったので、3位になったということだけで、私自身には十分うれしいことで、これからの励みになる。「自分の作品のうちで一番の出来のものは?」「次の作品です」といきたいものだね。