KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

卒論の自律化

 今年の卒論はとうとうこんな時期までずれこんでしまった。しかも、私は風邪をひき、確実に一週間はスケジュールを遅らせた。この時期の一週間は命取りだ。12月になれば、すぐに授業は終わり、したがって実験のための被験者を集めることもできなくなる。

 まあ、こんな認識を卒論生が持っているはずもないことは、彼らの行動でわかる。卒論生はこの時期であれば、毎日でも学校に来て、コンピュータに向かい、実験プログラムを作るか、アンケートの集計や検定をするか、研究史のための英語論文と格闘しているか、なにかしているものだ。残念ながら、例外を除いて、そんな卒論生はいない。自分の状況を認識しない、あるいは認識できないということは実にラクでいいな、と思う。まあ、あとで修羅場が待っているわけだが。

 指導教官の仕事は卒論の折々に指導して、そのペースメーカーになるということであるということは重々承知している。しかし、こちらもひとつしか体も頭もないわけで、始終伴走しているというわけにはいかないのだ。何よりも卒論生が自分で走るという努力をしてこそ、こちらも伴走できるというものだ。週一回のゼミの時だけ、走って(それもときたまにすぎない)、あとは止まったまま、というのでは、卒論は完成しないよ、本当に。

 おどかしているわけではない。もとより私はおどかすのは好きではない(それでここまで来てしまったのかもしれないな)。ただ、自分のいる状況がどうなのか客観的にとらえておかないと困ることになるということを知って欲しい。時間はけっして待ってくれないのだ。

 問題は何か。来年のために記録しておきたい(今年についてはあきらめているわけではないが、あきらめのいいところが私の長所でもあり欠点でもある)。

 問題はただひとつだ。それは「卒論は自分が進めていくもの」という自律的行動が取れないことだ。そしてこの原因はいくつかある。対策とともに考察してみたい。

 (1) 指示がなければやらない

 「指示待ち世代」といわれるが、世代としての特徴なのかどうかはわからない。ただ確かに指示されるまで待っているという傾向はある。これが悪いと一概には言えないのは、指示されたことは実に要領よくこなすということがあることだ。これはこれで能力である(指示されても満足にできないよりずっといい)。

 しかし卒論で要求されているのは、指示がなくても自分で進めていくということなのだ。つまり、目標に向かって自分をマネージするという能力なのだ。

 この能力は授業では身につけることができない。一般的に授業という形態そのものが先生による他律的行為にほかならないからだ。自律的な行動のやり方を身につけるためには、一定期間で一定の成果をあげるような課題設定をして、あとはほおっておく(しかし先生のほうは常に助言できるという環境で)というようなプログラムが必要だろう。このプログラムを二年生の「基礎ゼミ」でやるという手もある。

 (2) 基礎的スキルがない

 二つ目は、なにかやらなくてはいけないことはわかっているのだが、それをやりこなすためのスキルがないということだ。たとえば、実験でハイパーカードを使うならば、ハイパーカードスクリプトプログラミングは当然できなくてはいけないわけだが、それができていない。できていないなら、卒論を機に自分で勉強すればなんとかなるはずだが、それもできない。そこでそのプログラミングを誰かに作ってもらうまでおんぶするということになる。

 また、たとえば調査をやるならば、統計や検定は自分でやらなくてはいけない。いまどき、アンケートをとったんですが、どうやって処理したらいいんでしょうか、と聞きに来る学生がいるが、調査研究であればまさに統計処理が腕の見せ所ではないか。アンケートとるだけなら小学生でもできる、といって追い返したいところだ。厚顔なことに統計を勉強しようともしないでやってくる。すこしは勉強してから聞きに来いといいたい。

 ということで、実験をやるならプログラミングスキルは必須だし、調査をやるなら統計の知識が必須だ。自分ができそうにないと思ったらすぐに勉強を始めることだ。テーマを決めた時点で、プログラミングや統計処理の課題を与えて、基礎スキルをつけさせるような段取りが必要だろう。

 (3) 最後は何とかなると思っている(過度に楽観的)

 いかにせっぱ詰まった状態でも、どうにかなると思っているようだ。確認しておくが、卒論を書かずに卒業できた人はいないのだ。

 なぜそこまで楽観的になれるのかわからない。おそらく百ページ以上もの論文を書いたことがないからだろうが、これは一週間やそこらで書けるものではない。毎日少しずつ書いてやっとできあがるものだ。

 ある程度まとまった分量のものを苦労して書くという経験が卒論の前に必要だろう。とすれば、三年生の時期に苦労して書くという課題をこなさせることが必要だろう。少なくとも卒論のドラフトとしてまとまった量のものを書かせることを義務としよう。

 「今までに一番うまく卒論指導ができたことは?」と尋ねられれば、こう答える。それは、皮肉なことだが、私がJICAの仕事で一年間タイ王国に行っていたときの指導だ。

 そのときの卒論指導はタイと日本との間の手紙のやりとりでしかできなかった。そのやりとりはそう頻繁にはできなかったが、それでも学生はみな自分なりに考え、自分の卒論を進めていったのだ。つまり、卒論が自律的に進められたということだ。

 一番いい指導とは指導者がその場にいなくても、学生自身が自分を律しながら進めていくことなのだ。