KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

リチャード・カールソン『小さいことにくよくよするな!』

小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと (サンマーク文庫)

小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと (サンマーク文庫)

人生がいかに不公平かという話をしていたとき、友人にこう聞かれた。「人生が公平だなんてだれが言ったの?」彼女はいい質問をした。それで子供のころに教わったことを思い出した。人生は公平ではない。それは不愉快だが、ぜったいに真実だ。皮肉なことに、この事実を認めると気持ちがすっと自由になる。

 公平-不公平という概念を私たちはいつから持つようになるのだろうか。「ずるい」ということは小さな子供でもわかる。社会には、公平であるように、人々に正当であるように、物事を進めていくよう努力している人がたくさんいる。しかし、それはとりもなおさず、それを裏切るようなことが多すぎるのだということを示している。

 不公平な現実、不当に扱われる人々、ないがしろにされる正義、こうしたことがメディアに現れるたびに私たちはやりきれない気持ちになって、できることといえばせいぜいため息をつくだけだ。メディアは常に公平と正義を装う必要がある。しかし、あまりに公平と正義のメディアにさらされ続けると私たちはため息をつくのが習慣になってしまう。

 公平や正義などと大上段に構えなくても、私たちの日常は不公平なことだらけである。

  • なんで私がネズミ取りに引っかかって、切符を切られなくちゃならないんだろう?
  • なんで私が補助金の申請に落ち続けるんだろう?
  • なんで私はこんな妻(夫)と結婚したんだろう?
  • なんであいつが私よりいい給料をもらっているんだろう?
  • なんで私が病気で苦しむのか?
  • なんで私が早死にをしなくちゃならないのか?

 実際、きりがない。

 反対に、人生は公平だ、私は正当に扱われたという体験をすることはめったにない。数少ない成功体験---試験に合格したとか、賞をもらったとか---でさえも、私たちは「公平であるために報われたのだ」とは考えずに、ただラッキーだっただけだと思う。

 私たちは、よいことについては偶然だと思い、悪いことについては必然だと思う傾向がある。偶然としか思えない事故や不幸についてさえも、人々は何かの因縁やら宿命やら、果ては何かのたたりを思い浮かべてしまうものだ。

「人生は公平であるべきだ」という思いこみが自分を苦しめるのであれば、「人生は実際不公平なのだ」ということを受け入れてしまえばいい、と著者はいう。つまり自分の認知的な枠組みを変えればいいということだ(そしてこれが認知療法の根元である)。この本はそうしたさまざまな思いこみから自分を解放するための具体的な方法を教えてくれる(ヨガや瞑想まである)。

 自分の認知の仕方を変えることは訓練と習慣によってだれにでもできるようになる。それは自転車に乗るのを覚えるのと同じである。しかし、こうした訓練を受けた人はしばしば妙に軽薄で浮ついたように見える。「ポジティブ思考」はいいのだが、それが過ぎれば、物事を自分の都合のいいようにしか見なくなるからである。つまり坂があれば、たとえ目的地と反対の方向であっても上らずに下ってしまうようなところが彼らにある。

 もちろん上り坂は見方を変えれば下り坂でもあるのだが、そこでなお上り坂を選ぶことに意味がある場合もある。認知療法は楽な道を選べといっているのではなく、坂は上りと下りの両方に見ることができるといっているのだ。その両方が見えてくるためには「べき」を捨てて、リラックスし、自分の思考を自由にしなければならない。それが見えたところで、どちらを選ぶのかはあなたの決定下にある、と。