KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

パソコンでノートを取ること

認知科学概論」という1年生向けの授業をしている。

話す内容をスライドで映しながら、導入のレクチャーを始める。すると、カチャカチャという音がする。キーボードの音だ。この教室には30台のパソコンが配置されている。受講生の数は30人弱だが、その過半数が、自分の目の前にあるパソコンを使ってノートを取っているのだ。私が話し始めると、カチャカチャ。スライドが変わると、カチャカチャ。いっせいにキーボードを叩く音が響く。

去年はこんな現象はなかった。確かにパソコンでノートを取る学生はいたけれども、まだ少数派であった。ところが、今年は、全員とは言わないまでも、過半数の学生がパソコンでノートを取っている。画面をのぞいてみると、きちんとしたノートだ。タイピング速度も十分速い。1年たつだけで、こんなに違うのだ。学生はどんどん変わっている。

パソコンでノートを取るというのは、どうなんだろう。

折しも、講義の内容は、ドナルド・ノーマン先生言うところの「じゃまをするテクノロジー」だ。私たちが旅行にカメラを持っていくようになって、写真はたくさんとるけれども、その風景を記憶に焼き付けるということをしなくなってしまった。カメラはじゃまをするテクノロジーなのだ。

カメラの代わりにスケッチブックを持っていく。絵を描くという行為によって、私たちは必然的に風景に注意を集中する。そのプロセスによって、その風景は記憶に焼き付けられる。絵がうまいとかへたとか、そういうことが問題なのではない。また、一度描いてしまった絵そのものは、なくなってしまってもいいものだ。なぜならその過程で、私たちは大切なものに注意を向け、記憶の中に取り込むことができたからだ。そのプロセスこそが旅の意味になる。

ノートを取るということも、その結果きれいなノートができることではなく、ノートを取る過程で、話を聞き、要約し、自分が大切だと思うことを価値づける、そしてメモするというプロセスが大切だ。

手書きでノートを取るにしても、パソコンでノートを取るにしても、話す速度には追いつけない。それでいいのだ。だからこそ、ノートを取るときには聞いた話をまとめ、濃縮しなければならない。その脳の働きによって話の内容を記憶に焼き付けることができる。旅のスケッチと同じだ。それには、カメラのシャッターを押す以上の努力がかかる。その努力のプロセスを生み出すことが、ノートを取ることの意味なのであって、ノートを取って、後で読み返そうということではない。

ノートやペンはそうした努力のきっかけになる道具だ。そういう道具にパソコンがなりえているかどうか、ということが分岐点になるような気がする。