KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記猿人投票の意味

 もちろん本人が「これが私の日記なのだ」と言えば、それはその人の日記なのだ。以前、不特定多数に向けて書かれたものは日記とは考えていないと私が書いたのは、単なる個人的な感想にすぎない。もちろん面白い日記を書いて、多くの読者とアクセスを得ても、まったく問題はない。日記は面白くなくてもいい、とも書いたが、それは面白い日記はイカンということではもちろんなく、たとえ面白い日記が山のようにあっても、それをプレッシャーに感じる必要はこれっぽちもないということをいいたかった。

 「ランキングにこだわることは本来の日記からそれてしまう」と書いた。しかし、本来の日記なんてものは実は誰にも分からないのである。だからアクセス数が増えることがうれしくて、どんどん内容が変わっていったとしてもそれはそれでいい。実際に書かれたものだけが「本来のもの」であるという考え方も成立する(自分の心の中では大文学がすでに完成している妄想を持った人を思い浮かべてみよう)。それでも「何か違うな」というような微妙な内的感覚は大切にしたいけれど。

 実際、私は自分の日記への投票状況をよく確認しにいく。日記猿人の投票システムは実にうまく設計されていて、投票した人のドメイン名だけが表示される。そのために、個人を特定できないが、逆に投票してくれた人のイメージがぼんやりと分かる仕組みになっている。それで非常に親近感を覚えるのだ。実に人間的なデザインだと思う。

 また、日記を読んでくれた人の感想もよく聞く。「今日の日記は難しくて何が書いてあるのかよく分からなかった」というのを聞くと、なんていっていいのか、ちょっとつらいものがある。ある認知科学者が「さっと読んで理解できないほど複雑な文章は、単なる戯れ言である確率が高い」といっている。これは研究にも通じることだが、あるアイデアに対して考察を深めれば深めるほど、そのアイデアは単純なものになるということだ。そのアイデアを表現するのに1パラグラフを必要とするうちは、まだ完成されたアイデアではない。

 ともあれ、得票によっても、反響によってもその人の書く日記は影響を受ける。それが面白い。私個人は得票情報を見て、十分な満足感を得る。ランキングが上がれば、うれしいことだが、それを努力目標にしようとは思わない。そうするためには、自分が書きたいことを好きなスタイルで書くということを制限しなければならないだろう。

 しかし、書くということはこうした読者との交渉を含むもので、Web日記も例外ではない。たとえば独りよがりの文章、意味の通じない文章、論理のない文章は、早晩読者を失う。誰も読まなければ、わざわざWebで公開する必然性がない。Webで公開するということはその書き手が読者によって鍛えられるという機会を提供しているともいえる。その意味でランキングは微妙なフィードバックを書き手に送っている。

 日記の文体やスタイルが洗練され、読者を共感させる部分が多くなってくれば自然に得票は上がるだろう。得票ランキングは他の日記との競争に使うのではなく、過去の自分の日記と比べてどう変化しているかということを確認するのに利用するといいのではないかと思っている。