KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「人妻不倫もの」の日記

 「22歳年下の…」の日記にハマって以来、さるさる日記をよく読んでいる。とりわけ、「人妻不倫もの」に秀逸なものがある。おそらく、諸般の事情から周りの人に話すことができないどころか、相談もできないという状況で、今自分に起きていることをなんとか書き留めておきたいという気持ちがあるのだろう。また、それをWeb日記として公開することで、誰かに読んでもらいたいという気分を晴らしている。

 なぜ自分が書いたものを他人に読んでもらうと、気分が晴れるのか。よく考えてみると不思議だ。自分の思いの丈をおしゃべりして、友達に聞いてもらっても同様に気分が晴れる。これも不思議だ。書くのか、あるいは、話すのかは、その人がどちらのモードを好むかで決まってくる。いずれにしても自分の話を読んでもらい、聞いてもらうことによって、何か報われたという充実感が残るということだ。

 「22歳年下の…」はなぜか途中で小説調になってしまった。その転換と時期を合わせて、掲示板での非難も激しいものになって、結局閉じられてしまった。残念だ。なぜ、小説調の日記が一部の読者にとって不評なのかは、面白い問題かもしれない。それはその内容がフィクションかそうでないかによらず、語り口そのものが不評であるように見える。以前にも書いたが、日記を読むとき、私たちはそれを私信として読んでいる。私信に小説調の語り口はそぐわないということだろうか。小説として読めば、面白いのかもしれない。しかし、最初にその文章を日記として読むのことが決まってしまうと、その後、変更は難しい。そのため、小説調の語り口に変わると妙によそよそしく感じる。

 日記の本流は、作者にとって読者が見えていても、あえてそちらを見ないで書くということか。つまり、演出は不要だということ。事実や意見や内省を淡々と書くこと。実際、そうして書かれた日記を読んでいると、思わず胸を打たれることがある。