中央線はのろのろ運転だった。後で知ったのだが、線路にヒビがはいっていたらしい。こんなときにとてつもなくすばらしいアイデアを思いつく。メモも取れない状態だったので、そのアイデアを常に頭の中でリハーサルして、忘れないようにする。しかし、電車がのろのろ運転だったのでついぼんやりして、アイデアを忘れないためにリハーサルしていること自体を忘れてしまった。
「それでそのアイデアを思い出そうとしているんだ」と私は中村くんに話した。「とにかく今日中に思い出せなければ、一生思い出せないからね。すごいアイデアだったはずなんだ。すぐにでも実験して論文になりそうな。カタカナで7-8文字と漢字で2文字だったような気がするんだけど。」
授業中、私は中村くんの講義を後ろの方で見守っていた。ちょっとした空き時間に中村くんが私の方にやってきて、聞いた。
- 先生、思い出しました?
私はぽかんとして答えた。「え? 思い出すって、何を?」
中村くんはあきれて言った。「何を? なんて言ってるし」
私は、忘れてしまったアイデアを思いだそうとしている、と彼に言ったこと自体を忘れていたのだ。実に幸せな人である。ボケの兆候だろうか。