KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「学級大崩壊」

——News23スペシャルの「学級大崩壊」という番組では何日かの合宿を企画して「学級崩壊」の問題を取り上げていたね。

最初の15分間を見逃したんだけど、変な番組だった。学校の問題をとことんやるのかと思ったら、途中から北村さんという家族をスケープゴートにして、問題の所在をかえってわからなくしていた。実は家族が問題だったんです、とか言ってね。しかし、みんなが見ている前で一家にロールプレイをやらせた、あのおばさん、名前とか職業を見逃したんだけど、もし彼女が臨床家だとしたら、関わりたくないなあ。

——最初の方には「プロ教師の会」の諏訪さんも出ていたようだ。

そう。少ししか見られなかったので残念。でも、彼の主張する「管理主義」という言葉はものすごい反発を食らっていたね。

——「子供の気持ちを知ろうとすることが支配につながる」と誤解を恐れずに言う彼はとても誠実な人かもしれない。

その意味を考えずに反発する参加者は浅はかだ。その一方で、一人の「ダメ教師」代表、別名「優しい先生」が登場すると、その「頼りなさに怒りを覚えるほどだ」と非難する。彼らがいかに表面的にしか見ていないかということが明らかになってしまった。

——テレビ番組は批判的に見なくてはダメだね。

それには限界があると思うよ。というのは、筑紫哲也が番組の最後にまとめた次の3点なんだけどね:

  • 誰かのせいにするのはやめよう
  • この問題がごく一部で起きていると考えるのはやめよう
  • これは教育現場だけの問題ではない


もっともらしいでしょ。でも基本的に間違っている。科学的ではないのね。科学者はこう考える:

  • とりあえず誰かのせいにする。つまり仮説として原因をそこに求める。そしてそれが正しいかどうかを検証する。検証の結果、原因がそれでなければ、別の原因を探す。また複数の原因があれば、それぞれどの程度の影響力を持っているかを検討する。
  • 問題が一部で起きていると考える(実際すべての学級が崩壊しているわけではない)。そしてその問題が起きていない別のケースを探し、比較する。そのことによって問題が起こる条件を明らかにする。
  • 問題の範囲を限定する。検証のしやすい小さな問題に分割する。とりあえず教育現場で何ができるかを考える。範囲を広げすぎない。なぜならそれは検証を不可能にし、問題解決を難しくするだけだから。


番組を見た人が「これからは誰かのせいにするのはやめよう」と決心したところで、何も解決していないんだ。しかし、何か解決しそうな錯覚を与えるという点で罪深い。

——まあ、こうした分析的、実験的アプローチにも限界があるということで、全体論的(ホリスティック)アプローチが台頭してきているんだが。

それはね、分析的アプローチが十分試されてから次の段階の話ね。最初から「誰かのせいにするのはやめよう」と宣言するのは、科学的であることを放棄していると思うよ。道徳の時間じゃないんだからさ。

——テレビ番組が科学的じゃなければいけないということはない。特に商業ベースの放送は。これも「伝わりすぎるテキスト」と同じで、視聴者のためのファンタジーを残しておかなくてはいけない。余韻というか、ほどよい曖昧さね。それは断片的な映像をつなげたり、出演者の葛藤や涙を映すことで簡単に演出できるのだ。もともとテレビは科学的な分析には不向きなメディアだ。それをよく知っておかなくてはいけない。

それで、いいのかなあ…。