KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

そういう人がいる

 その人と話をするとどうしようもなく不安になってしまうような、そういう人がいる。

 話していて、相手が何を目的としているのかがわからないとき、自分は不安を感じ始める。なんでこの人は私にこんな話をするんだろう。いったい何を私に言いたいんだろう。何か言いたいことがあるに違いない。あるいは、私が何かに気づかなくちゃいけないんだろう。それとなくそのことを要求しているに違いない。それはいったい何なんだろう。ああ、じれったい。いっそのことはっきりと言ってくれたらいいのに。なんでこんなに回りくどいことを言うのか。

 話していて、相手があまりにも落ち着き払っているときも、自分は不安を感じ始める。なぜならば、今時、そんなに落ち着いていられる人などめったにいないからだ。誰もが血眼になって何かを探し求めている。探し求めているものは人によって様々だ。それはお金であったり、地位であったり、人気であったり、勝利であったり、幸福であったり、癒しであったりする。それが何であれ、たいていの人は何かを探し求めている。それなのに、なぜこの人はこんなに落ち着いているんだろう。いったい何が私と違うんだろう。

 見たところ私とあまり違うところはないように見えるのに、なんでこの人は私と全然違うんだろう。まるで違う世界に生きている人のようだ。だけど、この人は確かに私の延長上に生きているはずなのだ。それなのになんでこんなに違うのだろう。ああ、不安だ。それがわからないから不安だ。それになんだか悔しい。

 その人と話していてどうしようもない不安を感じているあなたは、ゲームを始める。ああ、そうか。この対話をゲームにしてしまえば、私は不安じゃなくなる。ゲームはただ勝ち負けを決めるものであって、どちらが正しいかを決めるものではないから。ゲームであれば、私には勝つチャンスがある。なぜならば相手はゲームをしていないようだから。

 ゲームならばいろいろなテクニックが使える。例1。あなたは私についてAと言った。しかし私はAではない。本人がいうのだから間違いはない。ゆえにあなたは根本的な間違いをしている。例2。Bということは世間の常識である。しかし、あなたはBに反することをしている。ゆえにあなたには知恵が足りない。例3。あなたは私についてCであると言った。その言葉Cをあなたにそのままお返しする。よく考えてみられるがよい。例4。あなたはDと言い、またEとも言った。しかし、DとEとは互いに矛盾する。ゆえにあなたの言っていることはおかしい。

 ゲームとしての対話はむなしい。ケンカになればギャラリーもはいって華やかにはなる。しかし、それがいったい何になるというのか。対話を求めてくる人に正面に向き合っては危険だ。それはゲームをしたいだけの人かもしれない。いったんゲームを始めると、それを見ているみんなが意識せずに対話ゲームをやり始める。収集がつかなくなる。気づいてみれば荒れ地が残るだけ。ひょっとすると、ゲームではない対話は、そっぽを向いてしかできないものかもしれない。

 相手に聞く耳がなければいくら語ったところで無意味だよ、とさとしてくれる人がいる。その通りだ。でも語り続けていれば、いつかは気がつくかもしれない。宝くじも買わなければけっして当たることはない(でも僕は宝くじを買わない。くじ以外にも賭けられるものはたくさんあるから)。いつかはわかるという、その可能性だけに賭ける人がいる。賭けるのは行動だ。わかるのは結果にすぎない。賭けるだけで99%は報われている。