KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ページという概念のないWebページ

 きのうの日記で書いた「理科系の日記作法」と「ダーリン仮説」については、いろいろな人から反響をいただきました。私の気がついた範囲で「晴れ時々日記読み」の方に引用させてもらっています。私の気づかない日記もあると思うので、もしよければ知らせてもらえればうれしいです。

 くろひょうさんの言うように、文科系・理科系の区別にいったい意味があるのかというところは大問題なのですが、そこを無意識にすっ飛ばしています。その上で、さらに思いついたのですが:

  • 理科系日記の第一の特徴は「箇条書き」スタイルである そして
  • 文科系日記の第一の特徴は「本文センタリング」である

 というのはいかがでしょうか。本文をセンタリングしているページはけっして多くないのですが、存在します。私には、あのスタイルはとても読みにくいのですが、どんなもんなんでしょうか。

 私がちょっと面白いなと思ったのは、上田さんからの:

京極夏彦が、ページの終わりで文がキチンと終わるように計算して本を書き、出版しているのですが、文庫化のように本の版型が変わるとその都度文章を改訂するそうです。

 という情報。これは、一見すごいことのように思えるんだけど、やはり発想が反対という感じがする。というのは、ページの終わりでちょうど文が終わるようにしてはいけない、と考えるやり方もあるからだ。つまり、それは文章(文の連なり)としては続いているのに、たまたまページの終わりでちょうど終わっていることによって、そこで区切りの印象を読者に与えてしまい、ひいては誤解を与える、ということだ。

 おそらくアルファベット文化圏では、万一ページの終わりでちょうどピリオドが来てしまったら、それを避けるべく文を増減させるはずである。これは京極夏彦の方法とまったく逆である。つまり文章が続いているならば、ページの終わりは、文が途中で切れていなくてはならない。それは、まだ続きがあるよということを明示するからだ。もし、ページの終わりがピリオドで終わっていたら、それがたまたまそうなったのか、段落や節などの区切りなのか、読者が判断しなくてはならない。本来はそれは作者の仕事であるはずだ。

 もちろんページごとに、ひとつの内容がまとまっている、というならばその方法は意味があるわけだが、実際はどうなのだろう。ページごとにひとまとまりの内容をレイアウトするという方法は、ノウハウ本やマニュアル本によく見られるけれども、小説ではなじまないのではないか。

 Webページでは、本のように物理的な制約としてのページがない。書き手としては、その分自由なはずなのだが、自由は時として不安を伴うものだ。だから、Webページの作者は、枠組みを使って文章を囲んだり、横線を引いたりして、文章に物理的なページの形を与えようと努力しているように思える。