自分が書いた文章に対して、他人から「面白いです! でも、ちょっと注文を付けるとすれば、こんなふうに書いてくれませんか?」と言われた経験がない。自分の思うままに、自分の好きなスタイルで書いてきた。大学の教員とはそうした点において、傲慢な人種である。もしくは、金を取ってやろうとして文章を書いたことがないということか。
だから、原稿をひとまとまり書いたところで編集者に送り、読んでもらって、すぐに感想をメールでもらうというサイクルは、確かにやりがいはあるのだが、少々疲れる。ほめられるにしても、注文を付けられるにしても、そうした反応そのものに慣れていないのだ。「思わず笑ってしまう文章を」と言われても、ソウイウ文章ハ書イタコトガナインデスヨ、コレホント。
しかし、よくよく考えてみると、たくさん読まれる文章、つまり売れる文章、何かしらの影響を与える文章を作り出していくという作業には、いろいろと注文をつけてもらうというプロセスが不可欠なのだ。文章を生産してそれで生計を立てている人は、そんなことは当たり前のことだと思っているだろうが、そのことに今気がついた。その意味で、今やっている仕事はすごく新鮮なのだ。新鮮なことは疲れることでもある。
これが、たとえば注文を受けて作るプログラムだったならば、ひととおりできあがったところで注文主に見せて、感想を聞いてまわる。そこで「こんなふうにしてくれ」と言われたなら、即座にその通りに直すのだ。たとえ、心の中で「ちぇっ、こっちの方がエレガントなんだけどなー」と思ったとしてもだ。それは絶対だ。「こうしてほしい」という注文が不可能でない限り、そうしようと思う。
授業の場合は、お客様である学生の注文を聞いて内容や授業方法を決めるわけではない。しかし、「こうしてほしい」という注文はよく聞くし、不可能でなければできるだけ実現しようとする。しかし一方で、自分自身の方針もあることはあるので、そこらへんは注文主とのネゴシエーションになる。
文章の場合は「こうしてほしい」と注文を付けられたので、「そうしよう」と思って書き直したあとの文章が、望んだようになっているかどうかは保証の限りではない。一部分を直せばいい、というものではなく、書道のように全体としてできあがっていて、部分的な交換ができないという特質がある。そこが難しいところだ。