KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

大学教員が職場を移るとき

 普通の会社では、転勤は命令されるものだ。それは栄転の場合も、左遷の場合もあるのだろうが、たいていは拒否できない。最近は制度的に転勤を拒否できる会社もあるようだが、その場合少し不利な条件をのまなくてはならない。

 転勤がないのは、大学教員という職業だ。正確には、大学教員には上から命令される転勤はない。転勤するときは必ず自分で決心して職場を移っていく。職場を移る場合は、たいていの場合栄転である。条件のよりよいところに移って行くわけだ。まれにそうでない場合もあるが、そのときは何か裏の事情があるはずだ(誰かと誰かが犬猿の仲だとか)。

 大学教員が職場を変えるときは、たいてい栄転なので、「私、この春から別の大学に移りまして」と報告する人の顔はちょっと誇らしげだ。そして、その報告を聞かされた人はちょっとうらやましげだ。「それは、よかったですね」といったりする。

 毎年、年度が変わるときにも、年度の途中でも、何人かの教員が転出していく。その数は全体の1割弱くらいで、けっして多いとは言えないが、無視できない数である。もちろん転出していく人は、なんらかの魅力、実力、あるいは人脈のある人なので、そう多くはないのは当然のことだ。しかし、パレートの法則だったか「全体の8割の仕事は、上位2割の人がする」というような経験則があるので、実力上位の1割の人が転出してしまうということは、その大学にとって、実は大変な損失なのだ。もちろん転出したポストには新しい人が採用されるのだが、戦力ダウンは必至である。

 そして転出した人は、序列化された大学の高い方に向かっていく。栄転なのである。

 序列化というのは一次元での評価基準なので単純明快だ。その反対は、多次元の基準を持ってくること。つまり、ひとつの軸では比較できないような「特徴」を誇ることだ。しかし、この栄転システムが全国的に稼働している限りは、序列を乗り越えて、特徴をだすことは難しいだろうなと思う。序列システムが人々の心の中にある共有化された幻想によって支えられているのだ、と気がつくのが早いか、あるいは、特徴を打ち出すことに成功した大学が増えて来るのが早いか。その中途ではあるのだが。