KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

2ちゃんねると高等教育フォーラム

 最近ハマっているのが、「2ちゃんねる掲示板」と「高等教育フォーラム投稿欄」。って、この二つを並列させるのもなんだが。妙な共通点があるような気がしている。

 こういうサイトで、ガチンコでやりあっているのを読むのは面白い。自分が投稿しないのは、一度投稿してしまうと面白すぎて抜けられないのではないかというおそれがあるから。論争を読むよりも、その場に参加する方が10倍面白いというのは想像がつく。しかし、いったん参加してしまうと時間がいくらあっても足りなくなるだろう。ただ読んでいるだけでもずいぶんと時間を費やしてしまうのだから。

 「逝ってよし」や「オマエモナー」というのは2ちゃんねる用語の代表的なものだ。ここでは、あらゆる主張や信念は、徹底的に相対化される。切り札である「逝ってよし」ですら「オマエモナー」化されてしまう。連続する書き込みを読んでいると、ぐるぐると同じところを回っているようなめまいに似た感覚を味わうことができる。めまい感覚を味わったあとで、「じゃあ、結局私はどう考えるのか」ということが少し気になったりする。この効果があるので、「情報リテラシー」をつけるための格好の材料になるかもしれない。

 一方、高等教育フォーラムは、単一の掲示板に投稿するという形式。そのひとつひとつの投稿は、分厚い。たいていの投稿は段落文体で数十行ある。論文でも読んでいるような、緻密で詳細な考察があったりする。しかし、それにもかかわらず、議論のやりとりを読んでいると、どこからか「逝ってよし」とか「オマエモナー」という声が聞こえてきたりする。早い話、2ちゃんねるの読み過ぎである。

 2ちゃんねるの読み過ぎなのであることはわかっている。しかし、アンダーグラウンドの掲示板でも、実名掲示板でも、また、不倫がネタであろうが、日本の高等教育をどうするかというネタであろうが、「逝ってよし」と「オマエモナー」はキーワードだ。それは無茶なように見えて、実は不毛な議論にカツを入れ、生き返らせるキーワードなのではないか。タイミングの良い「逝ってよし」は、堂々巡りをしていた頭に、何か洞察をもたらすきっかけになるような気がする。もちろんそのためにはそこに至るまで徹底的に考えるというプロセスが必須なのだが。