KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「講演会=コンサートツアー」論

 音楽家はある程度以上の時間をかけて、自分のアルバムを作り、それを持ってコンサートツアーをする。そこでは、ツアーの前にリリースしたアルバムは、コンサートに来る人にとっては「予習」の材料になる。CDに収録された音楽の方が、録音条件はいいし、さまざまな効果もかけられている。だから「音」として聞くぶんには、コンサートよりもCDの方がいい。しかし、人々はそれを「生」で見聞きしたいがためにコンサートにいくのだ。

 そう考えると、CDもレコードもなかった時代では、聴衆みんなが自分にとってほとんど初めて聴く曲を聴いて楽しんでいたのだから、これはなかなかすごいことのように思う。しかし、クラシックの曲の中には、「初演では酷評を受けた」ものが名曲として今日にも生き残っている例がたくさんある。ということは、一回聞いただけでは正しい評価ができないという場合がたくさんあったということだろう。

 これは実感できる。クラシックの曲で初めて聴くものであれば、少なくとも10回は聴かなければそれが自分にとって好きな曲であるかどうか判断がつかない。10回も聴けば、ところどころに覚えられるメロディーがあるわけで、そうなれば好きになる可能性が高い。逆に10回聴いても何も残らなければ、それは自分には縁のない曲だ。

 アルバムというメディアのなかった時代のコンサートに比べれば、CDでアルバムを作り、あらかじめそれを聴いておいてもらって、その曲をベースにしてコンサートをやるのは、演奏する側にとってはとてもやりやすいものだろう。もちろん、コンサートでは「CD以上の何か」を求めて聴衆が来るわけで、その期待に応えなければならないという努力はしなくてはならない。しかし、そうであっても、コンサートでは自分が聞き込んだアルバムの曲を「復習」しているということが原点にあるような気がする。もし、アルバムを発表する前に、本邦初演の曲で固めたコンサートを開くとしたら、それは、音楽家にとって勇気のいることだろうが、きっとスリリングなものになるに違いない。

 講演会もコンサートツアーに似たところがある。自分の書いた本がベストセラーになれば、講演をしてほしいという注文も舞い込む。本を読んで、この著者ならばということで講演会に来る人もいるだろう。逆に、たまたま講演会に来て、話を聞いてから、この人の書いたものならばということで本を買っていく場合もあるだろう。いずれにしても、講演会をコンサートにたとえるならば、その人の著書はCDに対応する媒体である。自分の好きな時間、場所、ペースで読めるし、何回でも読める。

 これまで講演の依頼を受けるときは、注文主のテーマに合わせてやってきた。それは自分が関心のあるテーマにぴったりのときもあれば、大きく外れている場合もある。しかし、全くの見当違いでない限り、受けるわけだ。いずれにしても、最後には自分の関心のあるところに強引に持ってくるということになるのだけれども、相手に合わせて調節はする。

 しかし、講演会をコンサートツアーになぞらえてみると、これは逆なのではないか。本来は、初めにこちらが話したいこと、主張したいこと、聞いてもらいたいことを持っている。それは本の形になっていたり、あるいは原稿段階であったりするわけだが、それを講演会で提供するわけだ。その講演会では、「生」の迫力を利用して、著書という媒体をプロモートすることになる。