KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教員の流動化と引き留め策

病院での付き添いで一夜を明かしたのがきいたのか、風邪模様。鼻水がでて、一日中だるい。こういう日は日記を書くのも進まない。書くことには体力がいることを実感する。

10月か。来週からは授業が始まる。夏休みになんやかやといろいろな仕事をやっつけなくてはならなかったはずなのに、あまりできていないことばかり気にかかる。しかし、前向きに行こう。明日は誕生日。42歳ですよ。はせぴぃさん、掲示板へのメッセージありがとう。

私は富山大学というところで働いている。そこに職場を見つけたのは偶然の産物で、どれほどの期間そこにいるのかも未定だったが、現時点でもう10年もいることになる。10年もいると、大学の中で志を同じくして、手を組んで仕事をする人たちもできてくる。なにが痛いかというと、さあこれからというところで、そういう人が別の大学に移ってしまうことだ。これは痛い。なんだかズンとくる痛さ。

どうでもいい人が居残り、有能な人が移ってしまう。まあこれは、エレベーターで上りのボタンを押すと、下りばかりがくるように見えるのと同じ偏りなのかもしれない。しかし、有能な人はそれだけ外からの誘いも多いし、無能な人にはけっしてお誘いはこないだろう。移るべき人が移るのは当然としても、やはりこちらとしては痛いのである。これが居残る方の論理だということを完全に承知した上で、そう思う。

教育研究の成果をもっと上げるために、教員の流動化が図られるべきだということには賛成はする。有能な人が条件のよい職場に移り、成果を上げていくということだ。しかし、同時にその大学にとって有用な人材を引き留められるようなシステムもまた必要なのではないか。今のところ、この人は大学にとって必要だからといっても、その人を引き留めるような何の対策もできないのである。給与を上げることも、研究費をつけることも、広い研究室を提供することも、まったくなんのインセンティブもつけられないのである。歯がゆいばかりの悪平等

これが地方国立大学の限界だ。このシステムが改善されない限り、有能な人材にとっては一時的な腰掛けとならざるを得ないだろう。その結果として、無能な人が同じ場所に沈殿していくのである。そしてそのためにシステムの改善はますます難しくなる。