KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

認知のシェイピング

これから臨床心理学を勉強しようと思っている。どんな学問にもそれを成り立たせるような論理的な根拠と現実からの必要性とがある。だからどんな学問もそれをやって無駄になるということはない。しかし、自分自身がある領域に足を踏み入れることを決断するには何かのきっかけがある。

私の場合は、長谷川啓三「家族内パラドックス」(彩古書房、1987)を読んだのがひとつのきっかけになった。MRI短期療法の本だが、これを読んだとたんピンと来るものがあった。つまり、ひとつの筋道が見えてきた、というか。10年前に野田さんが言っていたのはこのことなのか、とわかったり(多分彼は「そうじゃない」と言うと思うけど。でも、いいんだそんなことは)。とにかく自分にとっての筋道が見えてきたこと。それから、実験心理学と臨床心理学と、そして今の自分の専門である教育工学が、いったいどのように有機的に結びつけられるのかという、ぼんやりとしたイメージがあること。

MRI短期療法の入門書を勉強してわかったこと。乱暴だが、書き留めておく。

例外の発見(困ったことの中で、例外的に良かったことが必ずあり、それを手がかりにすること)とは、つまり、認知のシェイピングである。心理療法に行動分析の枠組みを導入するのは、乱暴だが、そうすることで良く理解できる。ターゲットとしての認知の状態があり、そこにもっていくために、わずかなてがかりを利用して全体的な認知を再体制化していくということだ。短期療法が科学だと直観したのだが、それはこういう理由による。

フレーミングをはじめとしてさまざまなテクニックは、言語の使用が基本である。それはきっと「作文法」に生かせる。形態としての文章の書き方ではなく、内容をどう組み立てるかという意味の作文法に必ず寄与する。言語と認知がお互いに鏡映関係にあるからだ。

もう一つの柱として、言語分析哲学を勉強しておかなくてはならないこと。これは別件だけど。

行動分析が行動主義であるように(当たり前)、短期療法は認知主義だ。しかも、個人内の認知をブラックボックス化してしまうのではなく、2者間のコミュニケーションとして、外在化させた。しかし、その意味ではスキナー流の行動分析では、強化というのは実は行動レベルでのコミュニケーションであるととらえることができる。操作主義によってそれを外在化させた。この意味でもこの二つは対応させることができる。言い換えれば、コミュニケーションの操作主義だ。二重拘束もこれで理解することができる。コミュニケーションを決めるものは、やりとりされている内容ではない。それはあまりにもナイーブな見方だ。

認知を変えるために、行動レベルのインストラクションを使用する。たとえば、「今度は○○してください。そしてそれをよく観察するように」など。それは効果的だ。認知は行動に強く拘束されているから。ここが、単なる認知主義とは大きく異なるところだ。というか、今私が「発見」していることは、すでに当たり前の知見なのだろう。でもいいんだ、そんなことは。