KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ホンモノの自尊心

長い長い教授会だった。午後3時から始まり、終わったのは7時だったそうだ。私は、6時で途中退席した。

長かったのは、研究費予算の傾斜配分についての議論があったから。今年度から、研究費を個別に規定金額だけ配分するのではなく、その人の仕事ぶりを勘案して配分することが、全学の方針として決まった。その勘案方法については学部に任されているわけだが、それに反対する人がいて、議論が続いた。

学部の予算委員会では、研究・教育・社会的貢献の3分野に渡って、業績を自己申請してもらい、それによってプールした分の金額を傾斜配分するという方針を立てた。

それに対する反対のひとつは、「われわれは昇任人事のときなど、すでに評価を受けている。これ以上の評価はいやだ」というもの。しかし、昇任人事は、退職までにせいぜい3回程度しかないものだ。不十分だろう。評価ないところに改善なし。

もうひとつの反対は、もう少し哲学的なことで、「傾斜配分をすることで、業績をモノサシにした競争状態にはいるので、それはよろしくない」というものだ。競争状態がいずれにしてもよくないことは、コーンの『競争社会を越えて』で明らかにされている。しかし、評価することが必ず競争を生むかというと、そうとはいえない。たとえば、他人と比較するのではなく、過去の自分と比較すること。また、ある集団(たとえば学部)の仲間と協力しあって仕事を進めていくことなど。

要するに「競争ではない評価」というものにわれわれが慣れていないのだ。逆に言えば、「評価を受けることは、つまり競争である」という条件づけをされてきたということだ。「自分をほめてあげたい」は、競争ではない評価の一例だが、どことなくうさんくさい雰囲気がただよう。しかし、それは第三者の感じ方なのであって、本人が「自分をほめてあげたい」と言えば、それを誰も否定することはできない。

自分の業績書を書いて「うん、なかなかよくやっている」と思えば、それが事実なのである。たとえそれが、他人との比較の結果として、平均以下であるとしても、自尊心を失わないことが大切だ。あるいは、そんなことで失われるような自尊心であれば、それはニセモノなのだろう。