KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

低コストで高品質の評価をする技能

有斐閣のPR誌『書斎の窓』(2001.7/8)に下のような記事。

箱田英子「アメリカで考える日本の教育」

生徒の成績評価は、学習達成度(Achievement)、努力(Effort)、および授業態度(Citizenship)の三本立てで行われ、達成度評価は大小のテストや提出物の評価を積み上げて数量化され、五点満点中平均三・五以上をとると成績優秀者として学期ごとに表彰されます。授業態度は、遅刻がないこと、宿題を毎日きちんとやってくること、積極的に発言すること、授業中他の生徒の邪魔になるような行動をとらないことなどにより評価され、達成度評価にかかわらず六科目全部最高のE(Excellent)をとればこれも表彰され、これらの両方を満たすとさらに高いレベルの栄誉が与えられます。さらに、たとえその時点での達成度は高いレベルに達していなくても、先学期からの伸び率が高い生徒には、努力の点で高い評価が与えられることは、生徒にも親にも大きな希望を与えるものになっています。

(略)しかしその一方で、いくら教科書の内容が高度でも、成績評価方法が重層的でも、米国には日本よりはるかに深刻な学力格差の問題が厳然としてあることも確かです。

後段は、バランスを取るために引用した。重層的な評価が、学力格差の直接的な原因になっているとは思えないけれども、そういうような問題はある、ということ。

重層的で緻密な評価をすることのコストと効果について考えさせられる。達成度、努力、態度というそれぞれの観点で細かく評価し、悪ければ罰というのではなく、良いものを伸ばすために使っている。

授業態度がcitizenshipなのだというところにも味わいがある。日本ではこういう視点が抜け落ちているかもしれない。とにかくまじめにやるとか、先生に気に入られるようにするとか、その結果内申点を良くするとか、そんなことだけが視野に入ってきていて、普通の人としてどう振る舞うべきなのかというシンプルで基本的なことはあまり語られていない。

一方で、評価が緻密であればあるほど、個人間の差を(見かけより過大に)拡大するという問題もある。しかし、評価がアバウトでいい、ということにはならない。100分の1秒が測れなければオリンピックは開催できない。測ったものをその後でどうするかということは、また別の問題だ。データ分析とその考察のような関係にある。もちろん両者は緊密に関係し合っているのだが、それを分けて考えることは必要だ。

「何をどこまで評価するか」という場合の「何」は評価の目的によって規定される。つまりこの評価をすることで何を達成したいのかということ。アメリカの教育では、達成度、努力、(市民としての)態度をそれぞれ伸ばしたいのだといっていることになる。

一方、評価を「どこまで」するかは、もっぱら評価する方の労力や時間といったコストによって規定される。低コストで高品質の評価をする技能というのは、実は教育を仕事とする人の重要な資質であるのかもしれない。