KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

全体論的評価について

評価は細かく裁断されたものを積み上げる方法と、全体をざっくりと見る方法があるが、どちらがよいか。

全体を見る方法は、その個人がどのような思いを持ってこの授業に望んだかが見える。それを評価するのである。

もちろん、その人の人格を評価するのではない。そうではなく、その人のその授業への関わり方(姿勢)と実質的な行動と態度を、一貫したものとして(つまり全体論として)評価するのである。

なぜ、全体論か? 知識やスキルの獲得が目的ではないケースである。つまり、この授業機会を受けて、その人自身がどのように変わっていくか(つまり学習の成果)ということを予見するのである。

何へのアンチテーゼか? それは、細かい評価基準を作り、明示化することにより、それが目的化してしまい、その副作用として学習が(皮肉にも)起こりにくくなるということへのアンチテーゼである。つまり、「3回休めば単位を出さない」という規準は「3回までは休める」という恣意的な解釈を生み出してしまう。

3回休んだことは、その人の文脈として解釈されなければならない。やむを得ず3回休んだ人であれば、その埋め合わせとして何らかのレポートを自主的に(しかも意味のあるレポートを)やってくるだろう。「休んだら欠席課題を出す」というルールは、「欠席課題を出せば休める」という解釈を生むので、無意味なのである。

何よりも問題なのは、細かい評価基準目を明示化することにより、それは「やらされている」感覚を強めるということである。それは細目を出せば出すほどそうなるのである。そうした方略をとっている限り、自発的に学習を起こし、自発的に変わっていくという学習の究極的な目標を達成することにおいて、必ず失敗する。

なお、これは、文章によっても数値によっても与えられる細かい学習に関するフィードバックとはべつに考えられるべきである。こうしたフィードバックはできるかぎりなされるべきである。そのときにたいせつなのは、「このフィードバックはいかなる意味でも成績評価には直結しない」ということを明確に伝えることである。

そして、逆説的なことだが、全体論的評価を行おうと思うと、教員は、学習者に関するありとあらゆるこまかい情報を集めなくてはならないということなのである。