KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「愛の鞭」ということ

厳しさと優しさ(あるいは暖かさ)は同居できるということを考えていた。

よくいう「愛の鞭」ということ。

相手からどんなに厳しい仕打ちをされたとしても、その行為を「これは私のことを思ってのことなんだ」とリフレーム(見方を変える)してしまえば、その仕打ちが厳しければ厳しいほど、それは、ますますありがたいものに転換される。これは別に相手がいなくても成立する。なんらかの事故や不運に遭遇したときに、「これは私のことを思って、神様がくださった試練なんだ」とリフレームすれば、それが厳しい状況であればあるほど、がんばろうとする気力が湧いてくる。

ポイントは、「愛の鞭」をくだそうとする人自身が「これは愛の鞭なんだよ」と言ってはいけないということだ。なぜなら「愛の鞭」などということを言った瞬間に、その行為が嘘臭いものに見えるからだ。つまり、多くの人は「本当の愛の鞭をくだそうとするような人は、そのことを口に出していったりはしない」ということを信じている。神様は「これは愛の鞭だ」とは言わない。

「愛の鞭」の裏は、相手に優しくして、相手を甘やかし、その結果、ダメにしてしまうということにあたる。通常は、相手から優しくしてもらえば、それはありがたいことだと思うだろう。しかし、一度「優しさ」を「甘やかし」にリフレームしてしまうと、その「優しさ」に対して「ノー・サンキュー」を言うことができる。つまり「自分のことは自分でできる」と。