KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

でも私は使わないが

富山では、売りに出している家の風通しをしたり、庭に除草剤をまいたりした。あとは、妻の実家(魚津市)で気楽に過ごした。

テレビがあるとついテレビを見てしまうものだ。

所沢の家ではまだテレビ放送が見られない。電波の受信状態が良くないので、ケーブルテレビを頼んでいるのだが、電柱の使用許可が降りるまで時間がかかるらしい。それで、テレビは、ビデオを見るのと、ゲームをするのと、スカパーを見るのしか使えない。

それで不便かというと、そうでもない。ニュースはインターネットでわかるし、新聞でも読める。

テレビ放送が見られないのは、不便というよりは、自分の時間を自分のものとして使える感じがする。つまり、放送があって、それが面白そうだから見てしまうわけだが、それは放送時間に自分がコントロールされていることだ。録画されたビデオを見るのであれば、その行動を自分で選択しているわけだから、自分で自分をコントロールしているわけだ。この感覚は些細なようで、ずいぶん違う。

実は、妻がケータイを買った。もちろん私は「死ぬまでケータイを持たない」主義を貫いているので、買っていない。しかし、妻にとっては、子どもが学校に行くようになって、緊急の連絡手段としてケータイが必要なようだ。

今のケータイは、写真が撮れたり、カーナビのような機能がついていたりで、進化を遂げているようだ。マニュアルをぱらぱらとめくってみたが、まるでパソコンのようだ。いやあ、使えば便利なんだろうなあ。でも私は使わないが。