KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

実践の再現性とは何を再現するのか?

良い実践があるとして、それを別の人間が再現できる可能性について記述する必要がある。どのような道具、教材、コミュニケーション環境、スタッフ、マニュアル、そして参加者、があればその実践をほどよく再現できるのかという記述が必要だ。では、そういうアーチファクトが全部揃えば、実践が再現できるかといえばそうではない。確かに、プロセスや成果は似たものができるかもしれない。しかしそれはまったく重要ではない、と仮に言ってみる。

では、実践の再現性とは何を再現するのか? それは、そのプロセスや成果ではない。そうではなく、実践者と参加者の心理状態の再現である。そのために、アーチファクトが必要なのである。つまり、実践者と参加者に特定の心理状態を取らせるようにアーチファクトが配置されている。特定の心理状態を取らせることができるのなら、アーチファクトは別のアーチファクトに置き換え可能である。だから、良い実践者は自由自在なのである。その場で使えるものを使い、参加者を特定の心理状態に巻き込んでゆくことができる。逆にノービスは、特定のアーチファクトに頼るだけである。

PSI(個別化教授システム)を長年やっていてわかったのだが、教材や指導員といったアーチファクト単体には思想はない。しかし、それらを組み合わせ、あるアルゴリズムのもとに動かすと、はっきりとした思想が現れてくるのである。それは、たとえば、失敗しても良いこと、失敗から何かを学ぶこと、自分のペースで進めること、他者との対話から理解を深めること、多様な見方を獲得すること、練習したことを自信を持って発揮すること、などといった明確な思想なのだ。そして、それがPSIのエンジンになっている。こうした思想を参加者が明確に意識しないとしても、そうした心理状態になっていれば、PSIの実践は再現されたことになるのではないか。

あまりにも心理主義になっているだろうか?