- 作者: 村井実
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1978/02
- メディア: 単行本
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教育を支配してきた考え方は次のようだと村井先生は主張します。
- A. 手細工モデル=「作る」モデル=「善さ」が子どもの外にあり、それに向かって仕上げていく
- B. 農耕モデル=「育てる」モデル=「善さ」が子どもの内にあり、それを自然に育てる
- C. 生産モデル=手細工モデルの近代化=大規模化・学校化
学校以降の教育者たちは、農耕モデルと生産モデルのジレンマを解消しようとして「子どもは善さへの可能性を持っている。それを引き出すのが教育だ」という考え方を生んだといいます。そして、これは「ペテン」である、と。つまりこれは「子供たちが自発的であるかのように振る舞う」指導だから、というわけです。
では、村井先生が描く理想的なモデルとは何かというと「人間モデル」です。それは子どもが善くなろうとしている脇から先生が働きかけて、善さを実現するようなモデルです。では「善さ」とは何かというとそれは文化であって、文化が蓄積、精選された形で「教科」内容になっていくということです。それは文化を教え込むのではなく、教科を手がかりにして与えることで、子どもなりに善さを実現していくのだと主張します。
村井先生の考える「善さ」とは何でしょうか。それは、次の3つです。
- こころやり(思いやり)=相互性=相互関係の要求
- こころよさ(私利私欲)=効用性=生きる上での効用
- こころくばり(論理一貫性)=無矛盾性=矛盾を起こさないことの要求
そして、この3つの要求がバランスをとること、つまり「最適」であることが重要で、これをバランス=美の要求と呼んでいます。この構造とそのバランスが大切である、と。
子どもを善くするということは、子供たちすべてに生まれついて分かち与えられているこの構造が、活発に働いていくように助けてやること---それ以外にはありようがないということになるのです。「どういう子でなくてはならない」という固定した目標が「善さ」としてどこかにあるのではなく、「善さ」を求めるこの構造が活発に働く子、善さを求めてどこまでもたゆまずにその決定をしていくことのできる子を目指して努力すればよい---それが教育だということになるのです。
さて、村井先生がペテンだと喝破した「子どもが自発的に振る舞うようにする」指導ですが、これはコミュニケーション論からみれば上位相補的戦略であることは明白です(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20050709参照)。これは、村井先生が勧める「善さを求めて子どもが活発に働いていくように助けてやること」という行動とは弁別がつきにくいかと思います。心理的な問題だけのことでしょうか。
村井先生の善さの定義は、いわば公理ですから証明不要です。そしてそのバランスも時と場合により、また職業によっても変わるといっているですから、どうすればその子が「善さ」を求めて進んでいっているのかということは、教師を含め第三者が判定できる事象ではなくなるような気がします。そんな疑問が最後まで解消されませんでした。
とはいえ、村井先生の「こころやり(相互性)」を「人々は仲間だ」に、「こころよさ(効用性)」を「私には能力がある」に翻訳した上で、その信念を作ることが勇気づけである、というふうに解釈すると、そのままアドラー心理学になってしまうので、うん、悪くはないなと思いました。残るのはそれをどう実現するかという方法論ということでしょうか。