KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

宇佐美寛『授業研究の病理』

授業研究の病理

授業研究の病理

しかし、自分の思想はかわいい。ねばって、もう一冊書く。前の二冊の主張を解説する。角度をずらし、材料を変えて、特に授業研究の範囲を重視して、念を押す。これが本書である。

三部作の3冊目。この本では、大学の授業について書かれた本を批判することを中心に据えている。それを書いた教育研究者自身の読み書き能力が「相当ひどい状態」であることを示す。そもそも授業研究者が低学力なのだから、大学の授業が良くなるわけがないと主張する。

 考えさせようとして力んではいけない。「考えよ。」と号令をかけたからといって考えるようにはならない。
<健康>はもちろん望ましいものである。だからといって、「健康になれ。」と指示されても困る。何をどうすればいいのかが不明なのである。運動・休息・睡眠・摂食・医療……様ざまな心身への働きかけによって健康になるのである。
<健康>は理念である。それ自体は方法ではないから、そのままでは何の実践にも結びつかない。
<考える>も同様である。理念である。考えさせるにはどうしたらいいのか。

宇佐美先生は、かつて放送大学の「道徳教育」のラジオ授業を受け持った。ゆっくり、間をおいて、冗長度を保って話した。問題を考えさせるときは「……でしょうか。考えてください。」といって、しばらく黙ったそうだ。ディレクターがそれでは困ると苦情を言ったので、無意味・無内容な音声を出したのだそうだ(「うーん」とか「そうですなー」など)。これは荒唐無稽なように見えて、実はインストラクショナルデザインとして理にかなっているように思う。

 教育学とは、現実の教育を研究し、現実の教育をより良く変えていく学問であるはずである。私は、ずっとそう思ってきた。
 ところが、わが国の教育学のエネルギーは外国と過去(つまり歴史)のデータをあさるのに、ほとんど浪費されてしまっている。
 今の、日本の教育現実を研究しようとする教育学者は少ない。
 現実の教育に責任を持とうとしない、外国と過去への逃避をしているのだから、気楽である。現実離れで気楽だから、現実についての自分の考えを持つ必要が無い。いわんや自分の考えを実現する努力などしない。
 自分がないのだから、自分の言葉を厳しく使う動機・意欲も無い。粗雑で、非個性的な文章しか書けない。
 教育哲学の醜状は特にひどいが、教育学一般も似たようなものである。

宇佐美先生が定義するような「教育学」であるなら、私も教育学に喜んで参入したい。宇佐美先生の考える教育と私のそれとは天と地ほども違うことは確実ではあるけれども。