KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

今の学生にとってゼミ室って何?

 大学で私が管理している部屋は3部屋ある。ひとつは自分の研究室。残りのふたつは、それぞれ3年生と4年生の部屋としている。4年生の部屋は、大学院生の部屋も兼ねているけれども、今は院生がゼロの状態なので4年生だけが使っている。毎年、ゼミ生は5-7人程度なので、一部屋あれば全員が揃っても収容できる。実際、一人にひとつの机と一台のパソコンを用意している。

 学部3年生から自分専用の机とパソコンがあるっていうのはかなり恵まれていると思うのだが、どうなのだろうか。

 実際、現在のような環境にするのにはかなり努力が必要だった。以前は、ゼミ室はなく、完全に心理学の実験室だった。心理学の実験をやるためには、がらんとした何もない部屋が必要なのだ。だから普段はゼミ室として使っていて、実験の時だけ実験室として使うのは不可能。ゼミ室として使えば、いろいろなモノが増えてくるからだ。しかし、卒論生が自分の仕事をできる部屋がないのはやはりまずいだろうということで、実験室をあきらめてゼミ生専用の部屋とした。一人一台を実現したのもつい最近のことで、それまでは少ない予算の中から一年に1,2台ずつ買い足していって、それがやっと人数に追いついた。廉価なiMacという機種が出回ったことも要因として大きいけれども。

 私がゼミ室にこだわるのは、自分が学部生時代・院生時代に苦労したからだ。私のいた大学は、学部生はもちろん、大学院生ですら、部屋を与えられず、ましてや個人用の机やパソコンなど夢のまた夢であった。そんなことで苦労したこともあって、今の学生さんには専用の部屋や机を提供したい、と私は思っているわけだ。でも、しかし、自分の机が、当然のこととして与えられるのであれば、それに対してあまりありがたみを感じないというのも不思議ではない。まあ、そんなもんだろう。苦労して何かを獲得するというプロセスがなければ、その何かに対して当たり前の感情しか持たないものだ。実際、ゼミ室を用意しておいても、あまり有効に使われている気配はない。ときどき、私はゼミ室に入り、弁当のからでいっぱいになっているゴミ箱のゴミを捨てに行く。残り物が腐ったりすると始末が大変だからね。

 私が院生だった頃、自分たちのゼミ室は、無理矢理「占領した領地」であった。先生たちは、私たちをその部屋に常駐させないようにいろいろな手を打った。しかし、それにもめげず、私たちは占領地を死守した。なぜならば、そこは私たちの研究者の卵としての生活の場であり、勉強会の場であり、自主ゼミの場であり、もちろん遊びの相談の場でもあり、パソコンがいじれる唯一の場(当時はApple II)であったからだ。つまり、その部屋がなければ、大学に来る意味がなかった。

 占領地を守るために、私たちは先生とある種の取引をしていたような気がする。つまり、私たちが占領地を使わせてもらう代わりに、私たちは先生の仕事や研究の手伝いをした。たとえば、実験用のプログラムを書いたり。そんなふうにして、私たちは自分の技能を磨いていったのだ。そしてその技能は、切り札として使えることがわかった。先生が、私たちを強硬に追い出そうとすれば、私たちは「それでは、これまで世話をしてきたコンピュータを放棄するし、いっさい手伝わない」とほのめかした。その時点では、いくつかのコンピュータシステムや実験機材は私たちなしでは使用できなくなっていた。結局、先生と私たちとはうまくやっていくしかないということに気づいたのである。

 まあ、そんな昔話を書いてみると、「今の学生にとって、ゼミ室って何?」なんてことを聞いてみたくなる。時代が違うと言われてしまえば、それまでのことだけどね。