KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

マスター生大募集なのだが

 今年度前期の授業は、言語表現、情報処理、基礎ゼミ、合同ゼミだ。このすべての授業にマスターの石井君と浦崎さんに手伝ってもらっている。二人のおかげで、授業がすばらしく良くなっていることを実感している。具体的には、授業をどうしたらよくなるかという意見がもらえることだ。授業を良くするためには、学生に近いところにいて、なおかつ客観的に授業を見ることができる人の意見を聞くことが一番なのだ。

 またゼミでは、討論を活性化してくれるファシリテーターとして働いてくれる。ゼミで討論する、とはいっても実際にいきいきとした討論になることはまれだ(でもそれができたときは、いつになく興奮する)。「さあ、討論しよう」と言って、シーンとしているときほど冷や汗をかくことはない。良く考えれば、何も私が冷や汗をかく理由はこれっぽちもなく、冷や汗をかく必要があるのはむしろゼミの出席者のほうのはずなのだが、メディア二世(注1)である彼らは、討論でシーンとしても少しもあわてないのである。「何か質問は?」と聞いてもシーンとしている教室で冷や汗をかくのは教師であり、学生では決してない。彼らにとっては教師はテレビの一種なのだ。テレビに向かって質問するヤツなんていないでしょ(いたら変だ)。ともあれ、そんなときにもマスター生はとにかく発言の口火を切ってくれる。本当にありがたい。それがきっかけでみんなが発言し始めることは珍しくない(メディア二世でも観察学習はするのだ。というよりは観察学習はメディア二世の方が得意なのかもしれない)。

(注1)メディア二世:金原克範著『子のつく名前の女の子は頭がいい』で定義された、テレビを見て育った親の子どものこと。

 そんなマスター生にはいつまでも研究室にいて欲しいのだが、いつか彼らも修了証書をもらってここを出ていくときが来る。そのあとは、企業に就職するか、博士課程に進学するかのどちらかなのだが、私のいる情報教育コースには博士課程がない(本当は修士課程もないのだ。技術科教育に間借りをしているというわけだ)。今になって感じてきたが、博士課程がないというのはかなり痛い。というのは修士課程だけでは、どうしても中途半端なのだ。

 研究者としてやっていこうとするならば、博士に進むことは必須だが、修士を終えて、別の大学の博士課程にはいるとするならば、それはかなりの狭き門になる。うまく入れたところで、徒弟制の色彩の強い研究室にはいれば、やはり修士から上がってきた内弟子とは別の待遇を受ける可能性もある。そういう意味では、日本の修士課程、博士課程は完全にオープンになっているとはとても言えない。そこでは、人脈やコネがまだ幅をきかせている。学会でも徒党を組んでいる集団を見かけますね。とびきり科学的な思考方法を持っていると考えられる研究者集団の実態は、意外にも(といっていいのか)、古くさいということだ。

 というわけで、私の研究室ではマスター生を大募集をしてはいるのだが、私の本心は複雑である。せっかくマスターとして入ってきてもらっても、その後のルートが現状のように不透明であるとするならば、無責任に「おいで、おいで」をするわけにはいかないのではないか(そういうわりには、いろいろな人に声をかけてみてはいるのだが、それは「やっぱり聞いてみるもんだねぇ」という僥倖を生む偶然に賭けているにすぎない)。

 そう考えると、来年度のマスター入学者数は今のところゼロの予定であるが、それでもいいのかもしれないと思えてきた。肩ひじ張らずに「人生に迷ったら大学に戻れ、と言うので、来てみました」というような人が、ごくたまにやってきてくれて、一緒に研究の楽しさを味わうことで、今は満足するべきなのかもしれないね。人生を今一度考え直してみるときに、「研究」というのはもしかするととても良く効く「遊び」になるかもしれないし。