KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

大学のゼミの使い方

 大学の研究室とは何だったのだろうか、と自分の大学生・院生時代を思い返して考えてみる。

 自分は指導教授にとってあまりいい学生ではなかっただろうと思う。ゼミにはきちんと参加していたものの、教授の手伝いを進んでやる学生ではなかった。もちろん頼まれれば嫌な顔ひとつせずに手伝いをしたが、すこし気の利いた学生であれば、口に出して頼まれる前に、「先生、手伝います」と先手を打つものである。

 そんなこともせず、教授とはまったくちがったテーマを自分一人でやっていたり、自分で研究会をつくり、参加者を募っていたりしたのである。あるいは、指導教授とは別の先生を見つけて、そのゼミに入り込んでいたりした。ニセゼミ生である。しかし、そんなふうに自分で潜り込んで参加したゼミから得たものは、今の自分にとってものすごく大きい。今の自分の中に生きて働いている原理はほとんどそうして得たものである。

 しかし、いろんなゼミに潜り込んだり、ある意味で自分の好き勝手をやっていた私をとがめもせずにそのまま放っておいてくれた指導教授に、今は感謝の気持ちがある。「何を言っても向後は聞かないから」とあるいはあきらめていたのかもしれないが、それでもなにかとがめの言葉があれば、自分なりに無駄な悩みをしただろう。少なくともそんなことはなかったことに感謝している。

 時は流れて、今である。情報教育コースの学生は、三年次からそれぞれの研究室に配属される。これはいいと思う。卒論を書くまで責任をもつ指導教官がきっちりと決まっていることには意味がある。しかし、同時に、指導教官とはそれ以上のものではないことに注意を払わなくてはならない。

 せっかくいろいろな先生が揃っているのである。大人数の授業ではなくて、その先生の直の考えが聴ける少人数のゼミこそ潜り込む価値があるものである。向後ゼミに決まったから向後ゼミだけ、というのは、うれしくもあるが、私の本心としては、そこまでの忠誠を尽くしてもらわなくてもいいのだ。ぼくはすてきな卒論を書いてもらえば、つまりいい研究をしてもらえば、それが一番うれしいわけで、あとにも先にもそれだけなのだ。

 だから、学生にはせっかく高い授業料を払っているのだから、出てみて価値のあるゼミは全部潜り込んでもらいたいと思う。「君、誰?」と言われたら、私のほうからお願いしてもいい。本当にそう思う。それが大学の正しい使い方なのだ。無駄なゼミをたくさん聞くことが、長い目で見て自分の栄養になることを十年後に実感するだろう。しかし、そんなことを言うと「そんな時間はない。バイトで忙しくて」という答えが返ってきそうなのが、ちょっと寂しいのであるが(いつから大学は日銭を稼ぐことよりも軽んじられるようになってしまったんだろう)。

 そんなことを考えながら、自分のゼミもまた関係のない人が気軽に入ってこれるようなゼミにしたいと思う。