KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

エッセイストの死活問題

 8月29日付けののざる日記で、インターネットでおもしろい日記やコラムがたくさん読めるようになったらエッセイストにとっては死活問題になるのでは、という話をおもしろく読んだ。そうか、どうも最近、週刊誌やテレビがおもしろくないなあと思ったら、Web日記を読むようになったからなのだな、これは。Web日記を読んでいると日常的な話題から専門的な話題まで、おもしろいものがたくさんある。これがタダで読めるのだからありがたい時代である。

 ちなみにのざるさんはAERA週刊文春を講読しているそうで、これは私とぴったり一致している。文春は出張で飛行機の中で読んでしまった時以外は毎週買っている。その中の連載エッセイだが、全部マジメに読んでいるわけではない。必ず読むのは、土屋賢二の「棚から哲学」---この人のズレまくりはただごとではない。お茶の水女子大に女装してでもこの人の授業を聞いてみたいものだ。もうひとつは、隔週だが養老孟司の「異見あり」---できれば毎週書いて欲しい。それから、猪瀬直樹の「ニュースの考古学」---こういう人があと百人いれば日本はずいぶん住み易くなると思う。最後に、「淑女の雑誌から」---これはエッセイじゃないけどね、うふ。

 あとはあまりマジメに読んでいない。ナンシー関の「テレビ消灯時間」はここで話題になっているような番組をあまり見ていないのでおもしろさが十分わからない。室井滋の「すっぴん魂」は富山弁ばりばりのところが楽しいが単行本でいっきに笑いたい。上前淳一郎の「読むクスリ」も本でまとめて読みたい感じだ。あと、野坂昭如林真理子椎名誠泉麻人・・とそうそうたる布陣だが、テーマによって読んだり読まなかったりだ。

 で、最初ののざるさんの考察に戻るのだが、毎週買う週刊誌もその全部の連載を読んでいるわけではない。そう考えると、自分のお気に入りの文章がタダで、しかも毎日読めるというのはすごいことだと改めて思う。気に入ったページをブックマークしておくだけで自分専用の週刊誌を作ってしまうようなものだ。

 確かに「インターネットで公開されている日記、エッセイの類の99%は屑だ」という言い方は可能だろうし、また事実だろう。しかし、逆に言えば、残りの1%の文章には自分の琴線に触れるものがあるということだ。それはその人にとっての宝物である。「屑の絶対量が多い」ということであれば、毎日毎日生産される膨大な量の本、雑誌、新聞に載る文章も、ただ商品として成立しているだけであって、その99%が自分には無関係な屑であるということもできる。

 Web日記のすごいところは、その99%が屑であるような膨大なページ群の中から1%の宝物ページを探し出して、自分用のブックマークを編集するという「編集可能性」にあるのだろうと考えている。