KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

パソコン依存症

 9月13日(1998年)の読売新聞で柏木博が「パソコン依存症」というエッセイを書いている。それを要約すると次のようだ。

パソコンを使うようになって原稿を書くのが楽になった。しかし一方で漢字を忘れるなどの現象がある。パソコンに依存することは漢字以外にさまざまな能力を低下させているはずだが、依存をやめようという気にはならない。

 こう書いてみると、何度となくいろんな人が書いてきた陳腐な内容である。しかし陳腐なテーマが繰り返されるという現象にはそれなりの理由がある。たとえばWeb日記では「日記を書く理由」や「得票数を上げるには」というようなテーマはそれこそ何度でも繰り返されて書かれてきたし、これからも書かれるだろう。その理由は次のように考えられる。

(1) 誰にでも書けるテーマで、しかも自分にはユニークな意見があると思っている(それが陳腐な意見であることも多いのだが(含私))。

(2) 何度も書く価値のあるテーマだが、画期的な見解が出ていない。まだブレークスルーが起こっていない。

(3) すでに解決されているテーマといっていいのだが、それが蓄積されて公表されていないため、新人がそれを知らずに「我こそは」と思って書く。

 こう挙げてみると、やはりネットワークの世界でも蓄積のしくみがこれからのポイントになってくるだろうなという感じがする。もちろん陳腐なテーマであっても書く本人にとっては新鮮なテーマであるからそれについて書くことになんの問題もない。しかし蓄積された意見を一度ざっと見てから書けばよりすばらしいものが書けるはずだ(あるいは「やはり書かないでおこう」という抑圧が起こる可能性もある)。

 さて、パソコン依存症で漢字を忘れるといったようなテーマについては、もう結論は出ているように思う。それは「テクノロジー込みの人間の能力」ということだ。つまり「人間+テクノロジー」でどれくらいの成果を上げることができるかと考えてそれを最大にしようとする見方である。だから「人間+パソコン」からパソコンを取り去ったときに漢字を忘れているということを問題にしない。パソコンが漢字を覚えていてくれるのであるからそれでいいではないかというわけだ。

 漢字を忘れてしまっても、達意の文章が書けることの方が現代では重要である。「電波少年的懸賞生活」のなすびを見ているととりわけそう思う。なすびは漢字をものすごくよく書ける(「蓋」なんて漢字は普通の人は書けないだろう)が、しかし、作文は明らかに下手である。漢字がいくら書けても文章を作る能力はそれとは独立だ。ワープロがなかった時代は漢字が正確に書ける能力が社会のニーズだった。しかし今は違う。

 テクノロジー込みの能力を最大にしようとするから、アメリカはインターネットを隅々の学校にまでつなげることに腐心する。アメリカに学ぶべきことがあるとすればその理念だ。学習を促進するテクノロジーをすべての学生に、という理念だ。そこで使えるテクノロジーに格差があってはならない。それを用意するのは国の仕事、そこから先は学生の仕事とするわけだ。

 専用線でつながれたインターネットを使いたい放題使える日本の大学生の多くはそのことの意味を知らない。これから次々とネットワークが導入されていくだろう小学校の先生の多くもそのことの意味を知らない。彼らはネットにつながれた人間の能力がどこまで行くのかを想像できない。そしてそれは「本来の」(裸の)人間の能力とは別物だと考えているフシがある。裸の人間はもう今ではいないのだ。