KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日本心理学会大会@学芸大学

 学会に出るために朝、家を出たら通勤ラッシュにぶつかった。富山では電車を使わないので久しぶりにぎゅうぎゅう詰めのつらさを味わった。毎日こんなだと疲れるだろうな、としみじみ考えてしまう自分はすっかり田舎の人になっているんだ、と気付く。 日本心理学会の大会が東京学芸大学で開かれている。最近は教育工学に重心を移しているせいか、心理学会にはあまり参加していない。今回はシンポジウムの話題提供を依頼されているので参加ということになった。

 シンポジウムは大会開催方法のこれからを考えるという趣旨で、私は大きくなりすぎた大会のデメリットについて話そうとしている。しかし、実際参加してみると、大きな大会にはいろいろとありがたいことがあることに気がつく。ひとつは昔の仲間に会えることで、さながら同窓会のようだ。特に東京から離れて暮らしている身にとってはそれだけでうれしい。もう一つは研究の最先端を走る人たちの話を聞いて、勉強できることであり、大きな刺激になる。それを次にメモしておこう。

 1日目午前のシンポジウム「わが国における心理学研究の独創性を求めて」の中の佐々木正人さん(東大)の話。

 「科学」や「研究」という行為が真理の探究という捉え方から、同僚に対する説得行為というように「社会的構成物」としてとらえられるに至っている。つまり、科学とは論文や、装置、情報、人脈などから構成されるものであり、どこかにある真理を明らかにすることではないということだ。

 最近ではこの社会的構成主義に対する反撃も起こっている(既存の研究者にとっては研究補助金を賭けた戦いでもあるからだ)。たとえば構成主義を批判した「Higher Superstition」という本の出版など。また、社会的構成主義派のジャーナルである「Social Text」誌にアラン・ソーカルという物理学者がまったくのインチキ論文をわざと投稿したところ、それが採択された。このことによって構成主義者たちはインチキも見抜けないのかという批判がなされた。(まったくアメリカ人にとっては研究上の論争は戦争であり、平和共存をこよなく愛する日本の研究者と良い対比を成す。)

 研究は、「(1)偶然→結果の知覚→(2)仮説→再現」というステップでなされるが、研究者は先行研究に影響を受けて、(2)の仮説から始めることが多い。本来は(1)の観察を重視しなければ独創的な研究はできないだろう。

 たとえば、西欧の医学のアプローチでは最終的には「薬(成分)→病名」という対応関係を明らかにしようとする。しかし一方で、アロマテラピーのように「植物(丸ごと)→病状(処方)」というおおざっぱな単位での対応が考えられるはずだ。これは研究における分析の単位、因果推定の単位という意味で示唆的である(教育研究にもヒントになろう)。

 同じシンポジウムの松沢哲郎さん(京大)の話。独創的な研究をするためには、「鍛錬と伝統」がポイントであり、十年間続けることが必要である。自分の場合では、as a wholeとして猿の研究をしたい。

 午後のラウンドテーブル「数量的データおよび尺度を考える」での村上隆さん(名大)の話。尺度構成の原理とは、天秤(定性的はかり)を使って任意の石ころを測ること。粘土のようなものから同じ重さのボールを作り出し、それを単位にして測るという行為である。

 心理学者が日常的に用いる1〜7の7点尺度だが、7、5、1と評定されたとしても、5と1の差(4)は7と5の差(2)の2倍であるとは言えない(このことから分散分析をすることの疑わしさも出てくる)。また同じ5でもAさんの5とBさんの5とは同じものであるとは限らない。

 1日目はこんなところ。北教大の邑本さんに会った。札幌に行ったときに、伊藤進さんから「今度一緒にプレゼンの本を書きましょう」という話があったが、あれは本人は忘れているようだとのこと(酔っていたからねぇ)。ともあれ、邑本さんと一緒に、認知心理学をベースにした文章理解と作文の本を書きましょうよということを言う。企画書をまず書くこと。

 2日目は前日にオフということもあって午前中は寝ていて、午後から参加したが、面白いプログラムはなかった。ニフティの心理学フォーラムの児玉さん、ニコラさん、みみみさんといった人に会った。