KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記を書いてフロー状態にはいる

 テニスの相方が風邪でできないので、仕方なく呉羽山に登っている。呉羽山というのは大学のすぐそばにある丘だ。丘に登って、頂上から街を眺めおろしながら昼食を取るという具合だ。往復で約1時間。

 正直言って、あまり外には出掛けたくない。やりたいことはたくさんあるし、せっぱつまった仕事がなければないで、いろいろと考えたいことがある(この時間が一番幸せな時間である)。だから本当は外には出たくないのである。しかし、徐々に体重が増えているし、春休みにせっせとバドミントンをしたおかげでベルトの穴ひとつ縮まったのに、ここにきて元に戻ってしまった。わかったことは運動をしないでいると妙に腹が減るということだ。運動をしていないのにたくさん食べるから太る。体のためというのではなく、むしろ適切な食欲のためにも運動をしなくてはならない。

 山登りは最初は苦しい。なんでこんなことしているんだろう、あの件はどうするかな、まったくしょうがないな、などと雑念が頭の中を飛び交う。しかし、ほどなくすると急に何の前触れもなくフロー状態(忘我)にはいる。ただ歩いている道を見つめ、耳には自分の呼吸の音しか聞こえなくなる。そして頭の中には何も存在しない。フローである。忘我の快感を一度味わうとやみつきになる。ジョギングを習慣にしている人はたいていフロー中毒だ。

 日記も、それをいかに続けるかという視点で見れば、山登りに共通したところがある。初めのうちはリズムができるまでは苦しい。何を書こうか、書くことないよ、こんなこと書いてばかじゃなかろうか、などと雑念が飛び交う。しかし、書き始めてほどなくするとフロー状態にはいる。目はスクリーン上の文字に集中し、タイプしているという意識もなくなるほど、文章と思考の世界に入り込む。フローである。

 フローを得るためには自分の技能と体力にあった負荷がかかることが条件だ。歩いたり、走ったりすることは、自分のちょっと上のレベルに目標を置くことが簡単にできるのでフローを得やすい。日記もまた、自分が簡単に書けるところよりもちょっと上に目標を置くことによってフローを誘発する課題になる。テーマを与えられて、いやいや書く作文やレポートではなかなかフローにならない。また、簡単すぎて頭を使わない事務的な文書でもフローにはならない。しかし日記を書けばフローを得る可能性が高い。

 日記を書いてフロー状態になるためには、ジョギングと同じように、一定の時間内に一定の字数を書くということがコツになるかもしれない。あまり短いものではフローになる前に終わってしまうし、また、長すぎてもだれる。書く時間を制限すると、思考に対する負荷を高めるのでフローになりやすい。

 私の日記は最初のうちは、手で全文の下書きを書いていた。そうやって原稿用紙2束を使いきった。しかし2束目が終わるころから、ネタノートにメモを書き付けるだけになった。まれにそのノートに下書きを書いてみることもあるが、一部分だけであり、あとはメモだけにしてある。翌朝メモを見ながら、だいたい一時間で一定分量を書こうとする。タイプを始めると、メモをつけた時点で書こうと思っていた内容からだんだん逸れていき、最終的に全く考えもよらなかったことが文章になることもある。そのときはある種快感を覚える。たいていフロー状態になっている。