KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

卒論・修論のテーマ交換

 雑誌「bit」(共立出版)1999年1月号に載っている、「あぁ卒論」(電脳雑技団)が面白い。卒論・修論をめぐっての教授と学生との関係を書いている。その中の一節:

アメリカには、大学院には別の大学に進まなければならない、という制度があるそうだが、極めて健全に見える。大学を移るというのは、ある程度のロスはあるだろうが(…)広い視野を持った人物の育成には必要なことである。こうして、色々な研究所を渡り歩く研究者がたくさん誕生する。

 なるほどそういう仕組みだったのか。これは日本の大学にいると思いもよらないことだ。私の時代は、大学院に進もうと思う学生は在籍していた大学の大学院を目指すのが当然といった雰囲気だった。しかし、今考えると、学部4年・修士2年・博士3年の最短でも9年間を同じ大学で過ごすというのはちょっと異様な感じである。しかも指導教授は変わらない。同じ場所でじっくりと研究ができるというとらえ方もできるが、意地悪に見れば、風通しが悪くよどんだ雰囲気だということだ。

 以前「求む、大学院生」という日記(98.10.22)を書いたときに、栗鼠蔵さんから「学部生で本当に研究者をめざす者は、どうしても旧帝大系の院を受けさせてしまうなあ」という意見をもらった。これは就職の確率などを考えるとそうなのかもしれない。しかし、田舎の大学でもそこでしかやっていない特色のある研究をやれば、存在意義があるのではないかと思う。旧帝大系のやらない研究をすることだ。アメリカに行ったときに見てきたフロリダ州立大やジョージア大学などはそんな感じだった。エスタブリッシュメントのやらない研究をやるのだといっていた。

 ところで、「あぁ卒論」の記事の最後の方には面白い提案が書かれている。卒論・修論を教育的かつ成果の期待できるものにするために、研究テーマ交換会というのを開くというものだ。全国の教員が集まってテーマを交換し、同じテーマに取り組む学生を複数人作る。同時に成果発表すれば新規性も失われない。研究終了時に、みんなで発表会を開くというのも面白い。よい結果がでたら、連名で論文にするというのもいい。

 うーむ、これは面白いアイデアだ。どなたか卒論・修論のテーマ交換をやりませんか?