KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

自分の書いた日記を読み返すこと

 こうして書いている日記は、誰が一番熱心に読んでいるだろうか。もちろん私自身だ。私自身がもっとも熱心な愛読者である。自分の日記についてはそれは確信を持って言える。しかし、日記書きはみんなそうなのだろうか? もし誰か気が向いたら、アンケートを取ってみていただけないだろうか。

  • あなたは日記を書き終えた後、何回くらい自分の日記を読み返しますか?

 私自身は、少なくとも三回くらいは読み返していると思う。いやひょっとすると五回くらいかもしれない。データを取ればはっきりするが、それくらいの回数は読んでいるのではないかと思う。

 こんなことを考えているのは、教育工学協会の今年の大会で聞いた実践研究が印象に残っているからだ。その教育実践では生徒に自分でデータベースを作らせたのだが、そのデータベースにアクセスすると、まず自分の入れたデータをじっくりと見るのだそうだ。自分が入力したデータを時間をかけて見る。それは自分が作ったものを味わっているかのようだ。そのときに生徒の頭の中で何が起こっているのかよくわからないけれど、とにかく自分のものをじっくり眺める。データを入れっぱなし、作りっぱなしというのとは違う行動だ。

 はっきりしないけれども、そういう「所有感」というのがポイントなのだと思う。その所有感は自分が作ったものをパブリックにしたときに生じる。たとえば、自分の手帳に書いてあるメモはそれが自分で書いたということが自明なので所有しているという感じがない。単なるメモだ。たとえ他人がそれを読んだとしても解読されない限り所有感は生じない。しかし、そのメモを元にしてこうしてWeb日記を書くと、所有感が生ずる。パブリックにされたからだ。これは自分が書いたものだということが意識される。

 行動分析家であれば、所有感というような曖昧なタームは導入しない。自分の書いたものを何度も読むようにしむける好子は何かということを見つけだそうとする。それは自分が書いたものを読んだときに生ずる快感である。一般に自分がすでに持っている考えに近いことを読むことは快である(だから読者層というものが生ずる)。もしそれが自分自身が書いたものであれば、ほぼ自分の考えと同じなのだからそれを読むのは快である。したがって自分の書いた日記を読む行動が強化される。(しかし、こう書いてみるとあまり説明されたという感じがしない。どこか間違っているのだろうか)

 ともあれ、私は自分の日記を何度か読み返す。それは、世界に自分なりの定規を当てたという感覚を確認するかのようである。