KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

高校生は勉強しなくなっている

 苅谷剛彦さんが朝日新聞(99.1.11)で「大学受験のプレッシャーはどう変わった」という記事を書いている。1979年と1997年に高校二年生1375人を対象として調査を行い、18年間における高校生の変化を調べている。スケールの大きなサーベイだ(ちなみに、この研究の代表者である聖心女子大の樋田大二郎さんとは私も顔見知りである)。

 その調査項目のひとつに学校の外での勉強時間(塾や予備校での時間を含む)の長さがある。それを見ると、79年で一日平均97分であったのが、97年では72分へと短くなっている。3時間以上勉強した学生は17%から8%へと減少し、1-3時間という学生も40%から35%へと減少している。逆に、全然勉強していない学生は22%から35%へと増大している。

 データから見ると高校生は勉強しなくなっているということだ。校外での勉強時間が減ったからといって、学校での勉強に力をいれるようになるということはないだろうから、質・量ともに勉強しなくなっているということだろう。苅谷さんはこれをもって、文部省のテーマは受験プレッシャーをどうやって緩めるかということだったが、校外学習時間の変化から見れば確実にプレッシャーは弱くなっていると結論する。

 さらに、親の職業や学歴との関係を見てみると、親が高学歴であればあるほど勉強時間が長く、18年間での変化も少ない。つまり受験プレッシャーが弱まったことによって、階層間の学力差も拡大している可能性があるという。

 センター試験の監督をしていたら、試験時間の残りがまだ20分もあるのに、もうあきらめたのか机に顔をつけて寝ている受験生が3-4人いた(全体で50人程度)。これは完全にできて、時間が余っているというケースではあるまい。他人事ながら、もう少しねばり強く考えたらいいのに、と思う。あきらめがいいのに驚く。

 いつの時代も競争試験が当事者にとって嫌なものであることは変わりがない。しかし、そのプレッシャーは長期的には緩んできている。それは同時に、努力するものはますます努力し、努力しないものは全くしなくなる、という格差を大きくする。それは「個性の発揮」とは全く別のものだ。ポイントは個性の発揮できるようなシステムをどれだけたくさん、社会が用意できるかということだろう。努力ベクトルの大きさを縮めるのはどの人間にとってもおそらく不幸だ。努力ベクトルを大きくしつつ、自分の好きな方向を選んでそれに向け、さらに、それを評価するシステムを作るということだ。