KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

卒論の指導から「総合的な学習」を再考する

 きのうは、東北学院大の卒論発表会だった。お昼に大学に着いて、午後からの発表七件を聞いた。鈴木さんの指導した卒論は例年よりもバラエティーに富んでいる気がした。たとえば、幼児の早期教育に関する文献研究や、ハンバーガーチェーン店における新人のOJT訓練のカリキュラムの研究などが変わっていて目を引いた。もちろん以前から研究を進めている教材開発にかかわる研究が主流だけれど。このようにテーマの範囲が広がった原因は、鈴木さんができるだけ学生の自主性に任せて、テーマを決め、いったんテーマを決めたらそれをバックアップするという指導方法に変えたからだ、ということを聞いた。

 この前の長野での冬の合宿研究会でも「総合的な学習」がホットな話題になっていたが、実際にやられている例を見ると、たとえば、理科と体育、国語と社会といったように複数の教科を組み合わせた、「合科」以上のものにはなっていない。しかし、それではまったく不充分であり、総合的な学習とはお世辞にも呼べるものではない、と鈴木さんは言う。そもそも総合的な学習とは、自分で興味のあることをテーマに選び、自分で計画し、自分で実施し、自分で評価する、という体験を通じて、「学習の仕方を学ぶ」ことを目的とするものだ。「先生は何かを教え、生徒はそれを学ぶ」という伝統的な教室スタイルを踏襲している限り、合科だろうがなんだろが、総合的な学習には似て非なるものになる。

 学習の仕方を学ぶ(learning how to learn)、ということは教育の究極の目的であり、成果である。というのは、学習の仕方をいったん学べぱ、それはいつでも、どんな場面でも、またどんな領域でも、応用できる有効な技能となるからだ。逆にいえば、学習の仕方を学んでいない人は、いつでも学習に際して効率が悪く、苦労しなくてはならない。その端的な結果、学ぶことをやめる。日本の学校は、知識や小手先の問題解決は教えてきた。あるいは根拠のない精神論や、非合理的な根性論を生徒に押し付けてきた。しかし、いつでも学習の仕方を明示的に教えることはなかった。それはそのことを文部省が無視してきたからであり(秀才たちは保身のため、あるいは自分の価値を高めるため、学び方を隠蔽することを好む)、また現場の先生もそのことの重要性に気づいていなかった(学び方はへたくそだが真面目な人が教師という職業を選びやすいという要因もある)。学習の仕方を学んでこなかった人は、そのことの重要性に気づくことはないし、またそれを教えることもできない。文部省がその代りにやったことは、「心の教育」や「興味・関心の重視」というような「べた甘」で実体のないフレーズだった。やるべきことはそんなことでは、ない。

 総合的な学習の時間こそ、学習の仕方を学ぶ時間である。そのために先生は知識を教えるという一番安易な教育方法をえらぶのではなく、生徒に選択させ、計画させ、実施させ、評価させ、自分は直接手を出すのではなく、背後から支援するという、もっとも難しく、つらい作業を自分の仕事としなくてはならない。これがどれほど難しい仕事であるかは、卒論指導を真剣にやった大学教員ならば全員が実感しているはずである。それが学校の先生にできるのかどうか。総合的な学習の本当のねらいと意味をつかまなければとうてい無理だろう。

 日曜日はゆっくり起きて、鈴木宅で朝食。ニッカウヰスキー工場を見学して、昼は天童市蕎麦屋「水車」で食べる。ここのそばは、このまえ善光寺で食べたそばと同じくらいうまい。山形新幹線で東京に戻ってきた。明日、富山に帰る。